シララの歌 新谷行詩集

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 1968年11月、あいなめ会から刊行された新谷行(1932~1979)の長篇詩集。

 あいなめの同人のなかで、松本君の次にながいつきあいは、新谷君である。吉祥寺の通りをまがって我家へかえる道すがら、うしろから見しらぬ青年が声をかけた。それが北海道に行っている佐藤君で、その仲間が画家で、サンドイッチマンをしていた有吉君と、新谷君で、終戦後七八年か十年位のことではなかったかとおもう。駅前通りのさかえ書房で、みんなと顔を合せ、うちへも遊びにくるようになった。その後、同人雑誌をはじめたが、その頃から新谷君は、なかなか見どころのある詩を書く人だった。その後、詩集「水平線」があいなめ会から出た。今度の詩集は、第二詩集だ。「水平線」は上杉さんといっしょになってからの精神の格闘をえがいた作品で、二人のあいだの綾取りであったが、その後、新谷君は成長するために、いく度か苦しい殻破りをしたが、そばてみていて、それはいたいたしいものであった。むづかしい寄道もたくさんあったが、バンコンサクセツからぬけ出して、すっきりした姿が、この『シララの歌』である。これには、彼の最も純粋なものが、繊維をむき出しにして、ヒリヒリした風にあててさらされているのがわかる。北海道というローカルの条件も物を言っている。シララは、彼の心のなかにある郷土のあくがれであり、彼から抜け出して逃げてゆきながら、常に彼の心のなかにのこりつづける永遠の女性であるように私にはおもわれる。
(「シララの歌の跋/金子光晴」)より


 私の生れた北海道へは、十年近く帰っていない。賭け事に凝って、あげくの果てに食いつめ、女房と二人で豚飼に出かけたのが最後であった。
 子供の頃、春先になるとよく鰊場に出稼ぎに来たアイヌも、その頃にはもう姿をみせなかった。
 銀色の鰊の山が幾つもでき、ヤンシューのかけ声で活気づいた海辺も、すっかりさびれていた。廃屋になった網元の大きな家が、オバケ屋敷のように不気味であった。だが、海は相変ず青々と透きとおっており、私が子供の頃、年に一度鰊場に出かけてくるアイヌの子供と遊んだ海と同じ色であった。
『シララの歌』を書き始めたのは昨年の暮れである。初め、『トトマイの歌』という題で、アイヌを素材にした長篇詩を書く考えであった。百五十枚ほど書いた時、随分と余分なものが多く、濁っていることに気がついてすっかり行きづまってしまった。三ヶ月ほど放っておき、殆ど初めから書き直したのがこの『シララの歌』である。
(「あとがき」より)


シララの歌の跋 金子光晴
シララの歌
あとがき


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