2008年4月、砂子屋書房から刊行された八木幹夫(1947~)の第9詩集。装幀は辻憲。
先年、故人となられた川崎洋さんが誘ってくださった連詩(「手まり歌の巻」一九九八年)の一部をこの詩集の冒頭においた。本来連詩は共同制作だからその一部を切り取るのは、たとえ自分の作品としても邪道だ。ここ数年、自らの詩に対する空洞化を感じていて詩集をまとめようという気が全く起こらなかった。たまたま十年前の「詩の雑誌」(ミッドナイト・プレス)2号の、この作品を読み返して初めて詩集全体の構想をイメージすることができた。前詩集「夏空、そこへ着くまで」を出して以降、私は表現することの徒労感を感じ続けていた。文学が一個人の力で切り開かれていくものだという神話は現在の私にはほとんど無い。この連詩の断片が他の私の作品を支える効果を持つかもしれない。そう思った。作品に登場する「私」とは脆弱な存在だ。詩は大きなうねりの中から生まれるものであって、個人の思惑から離れることも重要なことではないのか。川崎さんには、折に触れてエスプリの利いた励ましをいただいた。詩が二束三文に扱われる時こそ、誇り高き目をキラッと光らせた川崎さんに後押しされたような気がする。連詩はまだ続いていたのだ。
Do not go gentle into that good night.
(あの心地よい夜におとなしく入っていってはいけない)これはイギリスの詩人ディラン・トマスの言葉だ。今、世界にはやさしげな深い闇が覆い始めている。この闇を引き裂くのは詩の力だと私は信じている。
(「あとがきにかえて タイトル「夜が来るので」が決まるまで」)より
目次
序詩
みどりのうねり
- 春の購買力
- 死亡広告
- 世間の思い、重い世間
- 読書で一日中過ごす
- 夜鴨渡る
- ミドリのハイキング
- 前夜祭
- 春のおまじない
- 欅がゆれて
- 山桜
ベネチアの鳩
- ベネチアの鳩
- 不在者の唄
- 奇妙な旅
- 故郷の道端に
- 私の耳は
- 私の娘たちは
- 私の腕は
- 私の鳩は
- わたしはくだだ
おしゃべりな植物
- おしゃべりな植物
- 夏の畳
- どぶ
- 砂まみれの赤ん坊
- 五月の風
- 裏木戸のある家
- のどが渇いた
- 富士山
あとがき