1990年1月、しんふくい出版から刊行された草野信子(1949~)の第3詩集。扉絵は土屋敦資、著者自装。
もう挨拶もすませたのに、なかなかドアが閉まらない間の悪さに押されるかたちで、「さようなら」と握手をしたことがあります。「眠いの?」と、そのひとが聞きました。「手のひらが熱いから」と言うので、私はおかしくって、笑ったところでドアが閉まり、新幹線はすぐにスピードをあげました。
赤ん坊が眠くなると、手のひらを熱くしたという記憶が、その時、無防備に言葉になったのでしょう。父親なのだ、と初めて思いました。長い間話してきたのに、詩や文学の話ばかりしてきたせいか、それまで一度も意識したことがないことでした。はやく眠ってくれないかと思いながら、赤ん坊をあやしただろうそのひとの、遠い日が見えました。若い父親を思いました。
そして、私も、もう今は、すっかり少年少女になってしまった私の子どもたちを、腕に抱いていた頃を思い出しました。家族との日々を思いました。
詩集の名は、「恋うた」という詩の一行からとりましたが、そう決めたのは、駅のホームでの、そのほんの一瞬のことだったような気がします。さしのべられた手のひらが、私の知らない、そのひとの日々の労働で、堅くささくれていたせいかもしれません。
(「あとがき」より)
目次
- カレーライス
- 星を見に行く
- 異郷
- 返礼
- ひとつの死のために
- 八月の名
- わたしたちの一日
- ことば
- あいのくらし
- バナナ・レコード
- 割れた茶碗
- 祝辞
- 樹の歳月
- 置いていく
- ひとこと
- 恋うた
- 地図
あとがき