友情 猪俣三郎

f:id:bookface:20180331092918j:plain

 1957年10月、四季社から刊行された猪俣三郎(1917~1946)の長篇小説。序文は亀井勝一郎(1907~1966)。

 

思ひ出(序に代へて) 亀井勝一郎

 猪俣君が三鷹の寓居で亡くなつてから、今年でまる十二年になる。私がはじめて猪俣君に会つたのは、昭和十八年だから、わづか三四年のつきあひにすぎなかつた。この間は言ふまでもなく戦争の最も激しかつた頃だ。お互に疎開もせず、武蔵野に住んでゐたので、度々往来して雑談する機会が多かつた。猪俣君を私に紹介したのは松本國雄君だが、松本君も出征した後は、ひとりの友人もなく、乏しい食糧と病身を以て、それでも文学に心をふかく傾けながら生きてゐた日の、けなげな姿が思ひ出される。
「友情」は唯一の長篇であるとともに、松本君への深い信頼感をこめた遺言ともなつた。自分の生ひ立ち、結婚、心のなやみ、文学への愛、それら青春の苦悩を、友情を通して語つたわけで、この支えがなかつたら、かうした告白もありえなかつただらう。私はこれを書きつづけてあるときの猪俣君のささやかな幸福を思つた。
 今日の小説に比べるなら、いかにもおだやかである。おだやかすぎるほどだ。「事件」として目をそばたせるやうなものはひとつもない。猪俣君の青春の素直な叙述があるだけだが、この作品の生命は、こゝに託された「思ひの深さ」にあると云つてよからう。
 猪俣君は、会つてゐてもさうだが、おだやかで繊細な人であつた。おだやかと云つても、単に従順なのではない。時には激しい口調で時世を論ずることもあつた。隠された激情があつたが、その態度はいつも静かに控へ目であつた。君の肉体上の弱さが、さういう態度をおのづからとらせたのかもしれない。「友情」を読んでもわかるが、勤めの上でも、家庭の事情の上でも、かなりの無理をかさねてゐたやうである。自己に無理を強いるのは青春の特徴とも云へるが、青春を精一杯生きようとする意志がそこにあふれてゐる。
 私は繊細な人と言つたが、それはこの作品の何げない風景描写にもあらはれてある。堀辰雄を思はせるやうな、詩趣にとんだ筆致もみられる。人事の描写にも、あらはなところはない。粗暴な感情はすこしもみられない。心をこめて、自伝の一面を、友情をめぐつて描き出さうとしたのだ。松本國雄君がゐなかつたならば、この作品は成立しなかつただろうし、むろん今日の出版も不可能であつた。友情に答へようとする松本君は、十数年のあいだそれを心がけてきたわけである。
 いま読みかへしてみると、戦時に固有の興奮はみあたらない。この時期のことを扱つた作品の多くは、戦禍の悲惨と、征くもの還るものの悲しみや怒りをあらはに描いてゐるが、この「友情」は出征の別離に堪えて、心の奥底で、ひそかに悲しんでゐるやうなところがある。友人の身の上に婚約といふ形で訪れて来さうな、さゝやかな幸福と、それをうちすて出征する時の気持にそれがよく出てゐる。戦争といふ苛烈な運命の中で、妻を愛し、友人を信じて、一人間としてまともに生きる道を求めてゐる。何げなく、柔い筆致のあひだに、猪俣君の喘ぐ心を聞くやうな思ひである。
 同君の生活のあらましは巻末の年譜に出てゐる。三十年の生涯はあまりにも短いし、時代からみても、環境から言つても、のびやかに青春を楽しむ日は、少なかつたやうである。今ならば治療も出来る筈の病気をかえて、苦難の時代を焦慮して行つた姿が思ひ出される。敗戦の直後、しばしば出会つて、日本の前途について語りあつたこともある。友人たちは殆んどみな疎開したり出征したり徴用されたりして、私たちの住む町は何かがらんとした感じであつた。町そのものは戦災からまぬかれたので、それだけのん気であつたとも云えるが、乏しいものをわかちあひ、夜ふけまで雑談した日々のことを思い出すのである。
 猪俣君には他にも作品のあつたことは年譜にみられるとほりだが、一冊の本としてまとめられるのは「友情」だけであり、世に公にされる唯一のかたみとなつた。その蔭に松本君の並々ならぬ努力のあつたことは改めて言ふまでもない。嵐の中を、持続する友情で生きるだけ生きてきた一つの生命、果敢ないと云へばこれほど果敢ない生命もないが、そこに漂い人生の哀歓といつたものを私は一読しながら感じた。猪俣君のこの出版を果した松本君の友。情の深さをも併せて感じながら、生前わづかに交際したよしみを以て、この序文をしるした。

昭和三十二年秋

 

 

NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索