1965年9月、思潮社から刊行された中正敏(1915~2013)の第2詩集。装幀は朝倉摂。
中正敏。彼がどのようにして詩に憑かれたか。私はまず、それについて語っておきたいと思う。
中正敏が、はじめて私の眼の前にあらわれたのは、数年前の、東京都都民学校の教室であった。そこで、彼は年若い多くのひとびとにまじって、熱心に詩をつくった。はじめ八〇人近かったその教室のほとんどは、二十才前後の若者で占められていたが、そのなかに二人だけ、五十才近いと思われる男性がいた。そのなかの一人が、中正敏である。二十五才を過ぎて詩人であることは困難だ、と云ったのはエリオットだったが、五十才を過ぎようとして、詩をはじめから学ぶというのである。
その異様さは、まさに印象的であった。どのようにして、彼は詩に憑かれたのか。中正敏は人生の途上において、眼を害われた。失明というのではないが、それに近い状態になった。そこから、彼の詩がはじまるのである。彼の第一詩集『雪虫』は、ほとんどがこの主題につらぬかれている。そのころ、彼はある大きな炭鉱会社の経理にいたが、眼を害われたために、常に会社内でのアウトサイダーとして過さねばならなかった。そのアウトサイダーの意識が、現代資本主義の組織の内部にあって、その組織を分析するという態度を彼にとらせたのである。そして気がついてみると、失明以上のこと、すなわち、もっと大きなものがそのなかで失われているということを知ったのである。
人間喪失。彼が、真に詩を必要としたのは、その事実に気付いた直後であったろうと、私は思う。そのときから、彼はひとつの主題を持って詩に突入してきたのである。彼の詩は、あるムードに影響されたり、半職業的な詩人のように、あるムウヴメントの系列に入ったり、そうした場で書きはじめられたものではない。純粋に中正敏個人の必要から、その精神内部を活性するための必要から、書きはじめられたものである。
第一詩集『雪虫』には、この個人の、精神内部からの、詩への欲求というものが、たいへん熱的にあらわされていたと思う。だが、失われた人間の回復ということは、結局、体験的告白だけではどうにもならない。
中正敏は、第一詩集『雪虫』を出すと、ほとんど同時に会社を辞めた。会社勤めがむなしい、という理由である。それはほとんど、彼が詩を真剣に書きはじめたときから、彼自身が選んだ課題のひとつであった。そうして彼はそれを果たそうと決意したのである。
彼が惜しみなく捨てようとしたのは、日本でも有数の、ある系列会社の、揺ぎない地位であった。世俗的に云えば、辞めるほうがどうかしているのである。だが、誰も、彼の決意を変えることはできなかった。
それから、二年間、いわば、彼の、彼自身の選んだ第二の人生の、最初の収獲が、この詩集『使者』である。
中正敏はいま、組織のなかの一員としてではなく、ひとりの観察者として、炭鉱の坑道深く降りようとしている。実際に彼は、人生の途上の何年間かを、鉱山で生活してきた。だが、不思議なことには、鉱山を離れ、炭鉱会社を辞めたいまになって、坑道がよく見えるようになったのである。体験が経験になるためには時間が必要なのだ。そして、事実により接近するためには現場から離れなければならない。
作品『使者』は、人間を喪失した人間へのレクイエムにほかならない。石炭を掘れといわれれば掘りつづけ、掘るなといわれれば、沈黙の表情でボタ山を見ている人間たち。その人間たちのうえに、更にガス爆発という災害が加わるのである。あの記録映画のシークエンスに、涙をこぼさぬ人はあるまい。そして、あの災害の意味するものは、決して炭鉱の問題だけではないのである。
中正敏の心のレンズには、いま、鉱山のガス爆発で、記憶を失ったひとびとの姿と自分の自画像とが、二重像となって写っているに違いない。だからこそ、執拗に、彼は炭坑夫の主題を追いつめているのだ。そこに、人間回復のための、一粒の種子がある。人間回復の主題は、人間の失ったものをひとつひとつ、拾いあげ、取り戻してゆくという、そのことだけではかなえられない。何処かで人間を追い越しているものを捕え、より高い次元へ人間そのものをのぼらせることでしか、その主題は果たされない。
中正敏。彼はいま、ようやくその次元の入口に立った。そうして聞えない沈黙の声のむこうから、甦った人間の声を聞こうとしているのだ。私たちと、ともに――。
(「解説/木原孝一」より)
目次
- 序詩 沈默
- 第一部 飛翔
- 飛翔
- 銀杏
- 針魚のように
- すんとり虫
- 死産
- 空庭
- 針の使
- せいやせいや
- 透明人体
- 1血
- 2肉
- 3骨
- 第二部 風車
- 風車
- 少年
- 狂女の月
- 水
- 穴
- エトルタの魚
- 旅人
- 1旅
- 2旅の部屋
- 3象と女
- 4ケースの中
- 5変更線
- 第三部 使者
- 風声
- 空木積
- 雲
- 木
- 蟹人
- 虚数
- 海の目眩い
- 歳末
- 使者
- Ⅰ鉱山保安法
- Ⅱメンタル・リハビリテイション
- Ⅲ天使たち A—H
- 梟
附表
解説 木原孝一
あとがき