1956年3月、白玉書房から刊行された穂積生萩(1926~)の第1歌集。穂積は釋迢空の女弟子。装幀は鈴木文子。
『あとがき』だけは,どうしても読んで頂きたい気がする。感じかたの確かな,おそろしく我(が)が豊かで強い,一人の人間を訴へ出してゐる。歌と無縁な人でも,そこから必ず巻頭に戻って,著者の歌を読み出し,又愛してくれるに違ひない。(「帯文/宮柊二」より)
私は貧しい町に住んでいます。大きな樹も稀にしかなく、火葬場の煙突からは毎日煙がのぼり、戸毎に内職と家内工業の姿の見える町です。
ここに住みなれて五年になりました。私の友達たちは毎日職を探し、子どもは素裸で塵にまみれています。
時には情なくて涙を流し、時にはよいとまけの娘と笑いこけながら、私はこの町を愛しています。この歌集は、新かな使いと新漢字を使用しました。
未解決な新かなを、文語体の短歌に使うのは、沢山の矛盾もあり、かなり苦痛もありました。
けれど、かな使いが再び旧かなに戻ることは絶対にないと確信しましたし、かな使いはいつの時代にも必ず変化して来ているものですから。――
新かなに切り替える直接の動機になったものは、娘の祥子が一年生になり、本を読み出した事です。
国語の指導をするために、私が古くては出来ませんでした。幼い者でも新しいことには従いてゆかねばならないと、切実に思ったことです。
折口信夫先生(釈超空)も、男の穂積忠もはげしい旧かな論者でした。旧いものは道理が通っているかもしれませんが、大衆を幸福には出来ません。今の人間は、昔の人より沢山の事を詰めこんでいる結果、かな使い位はわかりやすくしないと頭に入り切れないと思います。
そこで二人の続いて亡いあと、不肖の子が我儘の羽を延しはじめたわけです。
古語、漢語、漢字などをなるべく避けているのですが、私の歌は、何故か新かなになじまないものがあります。
屹度、迢空や忠の中毒から抜けきれていないのでしょう。これは苦しみの種であり、今後の課題です。真に勉強してゆくつもりです。啄木から哀果を経て迢空に於いて出来上ったと思える短歌の句読点を、私も使用いたしました。
沼空の弟子だから感謝して無条件に讃美するわけではありませんが、歌は短いもの故なおの事間がほしいのです。特に新かなを使用すれば、語意を明確にとる意味でも、是非句読点はほしいと思っています。
釈先生は、ふりがなにカタカナ、外国語に平がなを使用されましたが、その意味はよくわかりません。
とかくカタカナは目立つので、落語のオチが早くわかってはつまらないという気持で私は平がな(外国語)を使用したところもあります。私は秋田の地主の家に生れ、三歳から東京で、比較的豊かに育ちました。
折口先生と親しかったという叔父の沢木四方吉もまだ生きていました。十人の同胞(きょうだい)の末の子の私は、何かと言論を圧迫されました。曰く、親にむかって何ごとぞ。曰く、兄姉に口答えするな。その他こき使われるのは専ら下の子であったと記憶しています。不満は毎日積み重ってゆきました。その不満は、文章や短歌、あるいは、落書などで発散されていました。
十三歳に母を失い父が隠居してから、私のゆがめられた人生がはじまりました。
もの皆とぼしく気の荒れた太平洋戦争がはげしくなる頃、権力を失った老父と義母、強い力を持った兄夫婦と病気がちな私が、秋田の古い家にうごめき、それぞれの利己の爪を磨ぎながらも、家の面目というものゝ為に、表面だけとにかく平和に過していました。我家とは名ばかりで、戸棚の戸も自由に開く権利を持たない私でした。禅にますます打ち込みはじめたのもこの頃です。
昭和十九年(十八歳)の夏、日頃尊敬しぬいていた折口信夫教授が、秋田市に万葉の講義をしにいらっしゃいました。
私は家の人々に「体の調子が悪いので秋田市の日赤へゆく」と言って三日間の講義を拝聴に行きました。病気と言わなければ、汽車に乗ることを許されはしませんでした。
その時初めて折口先生にお会いしたのです。爾来、一週に一回欠かすことなく手紙を出しました。五年間というもの、折口先生は一度も返事を下さいませんでした。こちらも、意地と執念で五年間みっしり書き続けました。結局私は勝ちました。
上京がゆるされて、多摩川能楽堂にゆく事を先生におしらせしますと、その日能楽堂に会いにいらして下さいました。次の日は、大井出石のお宅に招いて下さり、風邪薬を調合して下さるやら、半切を下さるやら、帰りは、新しい下駄をおろして大分の距離を送って下さったのでした。――そんなわけで私は私流の解釈の結果、自分に軍配を上げました。これ以後先生が亡くなられるまで、この弟子は師匠にあまり頭を下げませんでした。
はじめて歌を見ていたいた時、先生はにこにこ笑まれて「落第」と鉛筆で原稿の上に書かれました。それからお顔をしかめて「うまい」と胸のわくわくする様な褒めことばを仰有った。私の一生を決めてしまった先生の御言葉でした。この因果な短歌の道を。――
生萩(なまはぎ)という名をつけていたゞいたのは、ある冬の国電の中でした。私は特にうれしくもなかったのでしたが、先生が亡くなってから、逆らってばかりいた自分を辱じて、この名を使うことにしました。「男鹿の嵐」とか、すさまじい名でばかり呼ばれましたが、しまいには「なまはげも喰い残すほど手に負えないわんぱくもの」という句を頂戴しました。なまはげは、私の出生地秋田の男鹿地方の小正月に出る鬼(民俗学)の名です。穂積忠の長男忠彦と私の結婚をまとめて下さったのは、無論先生でした。その時、媒酌人として、秋田の男鹿船川港町までお越し下さいました。朝早い山路を、二人で勿忘草を摘んで分け合うた事など、忘れがたいやわらかな感傷です。
その頃、私の父は病床に居て、片時も私を離しませんでした。経文を読みながら足をさすって上げぬと、眠らない父でした。たいていのお経を暗誦していた私は、夜も昼も父に無くてならないものであり、三ヶ月間不眠不休で精神肉体ともにすさまじい圧迫を受けました。逃げ道は結婚だけなので父のことはひどく苦痛に思いながらも、式を急ぎました。ところがこれは、封建という土蔵から抜道を通って次の土蔵にはいった様な結果になりました。夫の忠彦は東京勤務、私は穂積家の嫁として家風見習の為に、伊豆大仁町に置かれ、新婚その日から別居生活をしなければなりませんでした。
舅は、平和な家庭を描く美しい歌人でした。姑も賢いやさしい方です。
けれど、私は舅姑の理想とする嫁ではありませんでした。生れた時からの不満と、「自己の権利」という爆薬をいつも抱いている女だったから。――仏教恋慕と上面だけの忍従がこの歌集第二部「授受」の姿です。第一部「貧しい町」は、折口先生のお眼にふれずじまいになりました。その頃折口先生は、益々親の様に慈愛深くなられ、ヒステリイをおこす私をなだめるのに難儀なさいました。
「どう? この色紙いゝでしょ。いい嫁さんになって帰ればこれに字を書いて上げよう」と大阪訛でやわらかに仰有る。私は「字なんかいりません」とそっぽむく。でも結局は色紙を下さり、和かな心に治めて帰して下さったものでした。「わる嫁」と呼ばれたのは専らこの頃でした。昭和二十五年、この貧しい町に移り住みました。若い私たちは子どもを抱えて忽ち貧乏をしました。貧困を歌に詠むほど心に余裕はありませんでした。その上、長い年月ゆがめられた私のひねくれ根性の為、しばしば家の中が揉めました。ところが、夫の忠彦は、さすが、折口先生が褒め切れなかったはどの人で、よく練れて、適度に私を解放しながら、気永に気永に「私」を作りなおしてしまいました。
「家庭争議がおこりはしないか」と、この歌集の原稿をごらんになって、折口先生も、のちに土岐先生も、第一に心配して下さった事です。私があまりに自由に羽ばたきをして歌っているからでしょう。
美しい人は美しく見えます。けれど空想が破れると、忽ちボロ布の様にも見えます。
その空想は長く続いた事もあり、瞬間に終ったものもあります。どんな空想でも破れたあと、必ず一度脱皮しました。家庭も一段と円満になりました。が、この様な浪漫的な考え方は、私にはすでに過去になりました。
幼い時から夢見ていた仏教も僧形もすでに、ボロボロになりはてました。私はあらゆる宗教を否定します。忍従は建設にはなりません。信仰というものは、単に偶然に敏感になるだけのものです。現代の私たちは末梢神経をふるわせている程ではないと思います。
大本山永平寺の管長は「下界の事は何も知らな」くて、ひねもす字を書いて人に授け、食べる苦労もなく金欄を身にまとい、貧しい婆さんたちにその身を拝ませている。貧しい私達が真剣に生きる道。本当の事に目をむける道がこの頃の私に見えはじめました。
坂本育雄、この名は、幼い時から手をつないで遊んだ二つちがいの甥の名です。この歌集を新かな使いにしたのはもとより、その他有力な指導と協力をしてくれました。彼が無かったら、私の考え方も未だ、定まらなかったでしょう。
序文を折口信夫先生、跋文を穂積忠ということになっていましたが、はからずも続いてこの世を去りたまうて、一時は悲嘆にくれましたが、幸い土岐善麿先生が、私の切なるをいをいれて下さり、身にあまる序文を下さいましたことに感激しております。
跋文は、舅のかわりに書いていただいたのではありません。かねて折口先生にも、「鈴木亨先生に」とお願いしてあったのです。
鈴木先生が、今になって、やっと承知して下さいました。
折口門下で、鈴木先生ほど冷静な見識を持つ人は、稀でしょう。詩も短歌も俳句も私を愕かせるお作品をしばしば見せていただいたものです。が、それにもまして鈴木先生の頭の中は図書館のように整然と学問がつまっています。鈴木先生にお会いすると、その都度新しい学説を教えられ、私も駆足で学問をしなければならない衝動をおぼえます。
私に初めて「釈超空」を教えて下さった鈴木亨先生にこの本の最後を飾っていただいた事は、何にもまさる放びでした。
装幀の鈴木文子さんは、東郷青児画伯の愛弟子で、二科展でもその異色を注目されている才人です。
トキワ松学園の頃から、文子さんと私は、いつも助け合ったものでした。今時、あんな愚劣な圧迫をする教師はないでしょうが、ろくに悪い事もしないのに、異質な二人はいじめ抜かれました。――あの口惜しくも悲しい思い出をまた語り合いながら、これからも二人は手を握ってゆく事を思い合いました。それにしても、文子さんにはさんざん我儘を言った事をお詫びしなければなりません。
宮柊二様の御好意に甘えて御迷惑おかけしましたこと、鎌田敬止様に御手数おかけしました事をここで御礼申上げます。そして、この本の費用を遺してくれました亡父の愛に感謝いたします。
(「あとがき」より)
目次
一部 貧しい町 昭和二十六年より三十年まで 短歌一九〇首・長歌一首
- 猫
- 椎の花
- 夕陽
- 裸野
- 桜ばな
- 枯れた木
- 痩せた木
- 悔いある日
- 梅雨
- 野をすぎて
- 整形外科室
- なで肩
- 悪き人
- 山尋ね
- 朝嵐
- 風たちて
- 闇の眼
- 七夕
- 炉ばた
- 絵馬
- 白い血
- 消えゆくもの
- 師走の風
- 居酒屋
- 貧しい町
二部 授受 昭和十八年より二十五年まで 短歌二六〇首・長歌二首
- 晩秋
- 山みち
- 庭男
- 落葉掃き
- 九字の印
- 枯折のうれい
- 枯折のうれい2
- 婚約
- 春草
- まろうど
- 七月の声
- 玉虫
- 戸賀浜
- いとしい人
- 晋山式後日
- みぞれ山
- 待ちぼうけ
- ひみつ
- 大虚
- 倦怠
- 彼岸日和
- 父の死
- 草焼
- 七つの日
- 愛の花
- 別るる日
- ひとり酒
- 授受1
- 授受2
あとがき