1965年11月、思潮社から刊行された新井徹(1929~1944)と妻の後藤郁子(1903~1996)の合同詩集。編集は後藤郁子。装幀は力丸義孝。
詩集をひもとく方へ 後藤郁子
今年8月Ⅰ5日は戦後20年の終戦記念日であり、内外ともにアジアの一環としての日本にとって微妙な、大切な立場に来ています。
その前後に思い掛けなく詩集を編むことが出きたことは真実私たちに共感し協力して下さった人々への感謝と共に、地下に眠る亡夫への20年目の私の永年の志を果す一端ともなれば幸い、と思っています。
第2次大戦は私の生活の上にも大きく影響して経済的困難は詩の仕事、雑誌経営(詩精神)はもとより詩人夫婦であることさえ反照して結局私は詩筆を断念し、ささやかな家庭と生活に専念することを新井に告げたとき彼は涙をみせた。そして「南京虫」を上梓した。 1937年8月。それは彼の第3詩集であり生前最後の詩集となって7年後病歿。
新井徹(内野健児)は1923年9月処女詩集「土墻(どしょう)に描く」を出版している。土墻とは朝鮮の民家につづく土の外塀のこと。当時彼が主宰していた「耕人」にこの主題の詩が載ったときは災なく詩集になって発禁になった。広島高師在学時代から24才迄の作品編のうち5編。第2詩集「カチ」42編から5編。この詩集は朝鮮追放後上京1933年4月。東京の素人社から出版した。第3詩集「南京虫」は28編の詩と詩劇「そろばん学校」が集録してある中から11編。本当を言えば全詩集を読者の方に読んで頂くことが選択上よいのであるが、何分経済的事情もあり二つの詩集を思い立ったこと、一つにまとめたのも私一存であります。
戦後まもなく出版された河出書房その他のアンソロジーに掲載されたものは重複を避けた。未発表作品は彼の死後数年東京から疎開先きの東北で終戦を迎え私は再び上京して4度住居や職業を変えたりして子供もどうにか成長した近頃、漸く彼の詩帖めいたものから採録して見た。未完の「はるかな愛」は詩中の言葉で私が仮に附した。晩年7年を彼の病気と育児にかまけている私に彼は何事も言い残していないがともかく保存してあったもので発表することにしました。
彼は23才頃肋膜を病み、その後私と結婚してから別状なく相当無理をした生活なのに私が看病したのは最後の7年間です。戦前は現今のようにストマイ、ペニシリン、パスと言った薬品も社会福祉の結核予防会も微々として彼は詩一筋の道を歩いた。その間も両親妻子をかかえてよく省み、こう言った状態の中で戦後の物資豊富は庶民の彼に許るされなかったが、人間の精神方面に科学の進歩以前の文化に寄与する詩の仕事が彼の闘病生活であり、生きる夢を中断して45才の半ばで倒れた。彼の生命力には精神力の賜があったのかも知れない。と共に彼なりの武士道精神が無理をさせたとおもうがそれは彼の本望で、人々の生き方があるのでしょう。彼がひたむきに生真面目に人々に接し、日本の医学が世界より進んでいたらとも思わぬではないけれどそれは死者の齢を数えるにひとしい。彼は三冊の詩集を愛児と呼び、教え子と二人の子供と妻に別れを告げ永遠の帰らぬ旅に就きました。後藤郁子(内野郁子)は1937年に詩を書くことを断念した筈であるのに、今、第3詩集を上梓することになりました。
結婚の辷りだしからすでに今日がつくられていたような気もしている。詩にとりつかれた悲しみとも喜びとも思っている。たいしたものも書かないのが残念乍ら、このあと何年生きるかわからないし、やっぱり詩が出来た瞬間はよい気持です。新井は地味な人間で後藤は派出な性格に見られ勝ちで、以前は自分でもそう思っていたが本当は反対だという気がしています。いちかばちか。彼の筆はぶっつけ本番的な一気呵成といった風で、成るか成らぬかを計算する生活でありませんでした。
私の第1詩集「午前零時」は1927年6月東京の大黒貞勝氏の「森林社」から出版。当時私は京城に在住。詩集の表題の詩は朝鮮芸術雑誌「朝」に発表したもの。詩を書き出して2年位で習作時代であると自ら思っています。300部限定版で予約出版であったが手許には今は一冊もない。最近長男の女友達が日比谷図書館で読んだということから私の誕生日に長男がいつのまにかコピーして差し出された時はさすが嬉しかった。最初の詩集に何年振りかでお目にかかったわけで少々面はゆい気もしたが全篇の中から5篇採った。第2詩集「真昼の花」は31篇の中から16篇。1930年「宣言社」(自社)から出版。
以後20数年の作品の中からこの詩集をまとめる傍ら「はるかな愛」の聯想から「八雲立つ」を書きつづりました。小さかった子供はいつしか成長し、今後はそれぞれの道を独自に選んで進んで行くでしよう。戦争の中でさまざまな境遇を経た日本の社会と両親の事をどの様に若い世代は社会に向って活かしてゆくかと明るく豊富な生活を希願しています。と同時に本当に生きてほしい。それが何より人間にとって精神的に倖せであるから。
異質と見える詩の世界も照明の角度や光線の色、強弱によっているだけで、他の世界と大差ないと自分は思っている。
良識ある読者の多くに、読んで頂くのを比上なくよろこびとし理解と共感のために、優れた詩批評が時代を超えてよい解説者となり、詩人は「これこそいい詩だ」ということをつねに念頭において生活したいものです。
1965年が私たちにとってどう変貌するかわからないが真実平和をもたらすためにお互の全生活を高めるために、貧しい私たちにとって、どう、かちとったらいいか反省の上にも反省して、私は原爆の直接の被害者ではないが戦争の被害者であることは確かであります。何より幼い子供たちと善意の立場にある人々の方へ想いは深いものがあります。詩の系列については新井徹は初期から始まり未完の詩へ。私の詩は戦中から最近の作品の順を追って初期へさかのぼって系列したあと中篇詩「八雲立つ」は再び最近作に到る。
目次
・詩人が歌わねばならぬとき 新井徹
Ⅰ「土墻に描く」より
- 土墻(しょう)に描く
- 序曲
- 闇の曲
- 夢の曲
- 曙の曲
- 冬の朝鮮
- 砧
- 光りの大和
- 法隆寺中門嘆賞詩
Ⅱ「価値ある者」より
- 輪廻
- 鯨
- 自由の国
- 冬の戸
- 瓶をめぐる人々
- 悩める都市
- 価値ある者
Ⅲ「南京虫」より
- 死生のあいだ
- 化膿
- 貧乏
- ある子の記録
- 労働者詩人に
- 詩人がうたわねばならぬとき
- 挨拶
- 僕の碑
- 夕餐の卓で
- 心のかげ
- 南京虫
Ⅳ 未発表作品より
- 日記
- 誕生
- 子供の不幸
- 無題
- 釣鐘草にそへて
- 長篇詩 はるかな愛
デッサン 新井徹
・貝殻墓地 後藤郁子
Ⅰ 一九四四年 一九六五年 詩篇より
Ⅱ 戦中詩篇
- わが魂はめざめ清めらる
- 春箋
- 誕生歌
- 夜も昼もわれを呼ぶ
- 花に寄せる自伝
- 辛夷と欅
- 緑のコロナ
- 貝殼墓地
- タイム・レコーダーのように
- 愛と経済
- 男たちが退屈している
- 新生
- 都会の一隅
- 縫工の歌
- 製紙女工
Ⅲ 詩集「真昼の花」より
Ⅳ 詩集「午前零時」より
新井徹との道(エッセイ)
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