女体 小坂多喜子

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 1978年11月、永田書房から刊行された小坂多喜子の短編小説集。装幀は森下年昭。

 

 ここに蒐められた五篇の作品は、すべて共通した女主人公を持つ。ヒロインにつながりのある人物たち、即ち祖母、実父、実母、義母などの肉親から、深浅のかかはりを持つ男女に至るまで、登場人物の動きはすべてヒロインを軸として居り、かつヒロインの眼を透して描かれて居る。読者は多分、ヒロインと作者とを重ね合せて受取るだらう。勿論小説なので、そのまま等身大と見るのは危険だが、作者の筆使ひには、読者の受取り方など一切顧慮せぬ大胆さ、ある種の開き直りといつたものがうかがはれる。
 「祖母の初野が自殺すると、多希子は兵庫区の父の家に引取られ、もとの山手の学校に通い始めた。しかしもう授業にはまつたく興味はなく、学生生活は単なる腰掛に過ぎなくて家出することばかり考えていた。そして三学期の終業式の日、彼女は絵羽の羽織に袴姿で式を終えるとそのまま無断で上京してしまつた。十九才の彼女の周囲にはそのとき数人の淡い関係の男たちがいた。彼女の家出の原因は、意識の表面にあつたのは階級的なめざめだつたが、意識の底に潜在していたものはいびつな生い立ちに対する怨恨のやうなものであつた。」(「女体」)先覚者として尊敬する神近市子をたよつての家出であつた。神近市子の紹介により、彼女は『戦旗』出版部員となる。昭和五年、政府の弾圧下にありながら、『戦旗』は発行され、『蟹工船』や『太陽のない街』が出版され、戦旗社には活気があつた。中野重治小林多喜二、上野壮夫らが、しばしば戦旗社に現れた。同じ年、彼女は上野壮夫と結婚した。
 私が、上野壮夫、小坂多喜子夫妻と、上落合のさる横丁で門口をつき合せて住んだのは、昭和八年秋から翌九年秋までの約一年間であつた。上野壮夫が転向、執行猶予つきの刑を受けたあとのことだ。月に一度は刑事がやつて来て、向ひの家の上り框に腰かけた。上野・小坂の夫妻は良い隣人だつた。
 「階級的なめざめ」と「いびつな生い立ちに対する怨恨」から、革新の道に投ずべく家出した作者は、つひに、こと志と違ふ結果となつたのを認めざるを得なかつた。七転八倒、挫折の連続であつた。私如き微温的生活者から見れば、それは「業」といふ言葉を思はずには居れぬすさまじさである。
 作者にとつて、これらの作は、書かねばならぬものであることは瞭かだ。書かねば納まりがつかぬだらう。私は、先づそれが書かれたことを、加えて、それが実りある作品集となつたことを作者のために喜ぶものである。
(「序文/尾崎一雄」より)

 

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序文 尾崎一雄


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