2013年7月、澪標から刊行された米村敏人の第5詩集。装幀は森本良成。
私は五、六年前から三十坪ばかりの農園を借りて、いわゆる家庭菜園なるものを手がけている。夏野菜と秋冬野菜、年二回の衣更えも労は大きいが疲れは心地よい。病気にやられたり害虫やカラスの被害があるものの、この家庭菜園がなんとなく続いているのは、早春初秋のそれも早朝の空気の旨さに魅せられたからだと思う。
私は誰もいない広々とした農園で思い切り空気を吸う。空気には適度な湿りがあり鼻腔に微かな甘い香気さえ感じられる。その時々の季節を生きる野菜たちの葉や花の匂いであろうか。それだけでも充分値打ちがあるが、知人からは「やはり収穫のときが一番楽しいでしょうね」とよく言われる。しかし実はそうではない。私が最もこのささやかな農体験の歓びを感じるのは、自分で整地した綺麗な畝に種を蒔いたり苗(種芋)を植えたりするときである。収穫のときはむしろ歓びは少ない。それは私が〈農〉を生業にしているわけではなく、気楽な趣味稼業だからであるが、収穫(芋や玉葱)の後には運搬や乾燥、貯蔵などの残務があり、すでにそのことが頭にあるからである。作物は貯蔵方法を間違えると数日のうちに湿気たり腐ったりしてしまう。そういう厄介物を手にした感がどうしても付きまとってしまうのである。
言葉の問題もこの農体験とよく似ている。種や苗を植えているときの心境は、いわばこの野菜に〈自然〉という想像力を与え、どんな成長をするのかと反応(返事)を待っているような感覚がある。種を蒔いた後いつまで経っても芽が出ず、これはどうも腐ってしまったかと思っていると、僅かな土の隙間から緑白の新芽が必死に石くれを持ち上げ、顔を出しているのを見たときの小さな感動は、幼児が初めて言葉を発したときの驚きにも似ている。まさに言葉は土中の沈黙の中で育てられていたのだ。
この沈黙の集成が<収穫物>として詩となり詩集となったとき、それは私が農園で体験した厄介物の感覚と、軌を一にするのであろうか。いやそれは、と舌を反しながら、しばし瞑目してこの一文を書いている。
この詩集は私の五冊目の詩集である。多分これが最後の詩集になるであろう。これらの詩は私の詩想の根っこにある沈黙の声に、どこまで届いただろうか。それは生涯の幅で計り知れない領域である。
(「あとがき」より)
目次
- 相对性離論
- 夢
- 落下譚
- 駝鳥的日常
- 一件落着
- 解体船の港
- 蹠(あなうら)
- 眼耳搦め
- 通勤風景
- 三元連立方程式
- 四次元捜話
- 裂果
- 眩暈(めまい)
- 清水昶挽歌
- ミカン味の館
- 蚊帳
- 淡雪
- 蝙蝠(こうもり)
- 死死の形
- 独楽(こま)と蜻蛉(とんぼ)
- 拝啓サクランボ様
- ダリ展
- 視界
あとがき