千家元麿句集

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 1981年3月、皆美社から刊行された千家元麿(1888~1948)の句集。装幀は笠原須磨生。

 

 鯡売る娘の色の黒きかな 千春美(せんはるみ)

 この句は明治三十七年四月二十九日、読売新聞俳句欄に投じた千家さんの作である。四十五年にわたる千家さんの文学的生涯の第一歩はこの俳句からはじまった。
 千春美は最初の俳号で、三個月後に銀箭峰と改号し、後暮郎と改めた。選者は岡野知十で、知十は俳誌「半面」を主宰していた。千家さんは早速「半面」の運座に出席するようになった。そこで吉井澄浪(勇)、増永煙霞郎、同徂春(後室積)、戸沢菊韻等と交友を結んだ。この年二月に日露戦争がはじまっていた。千家さんはこの時数えで十七歳、満でいえば十五歳であった。

一壺に挿して満しぬ黄水仙

 昭和二十三年三月十四日、千家さんは十日ほど病臥してその生涯を閉じた。享年六十歳であった。この句は絶筆となったもので、二月二十六日の日記に誌されてあった。
 世に詩人として知られている千家さんの胸臆には、若い頃修業した俳句がいつもあって、時折作品を発表していたが、それが最後に絶筆の形で現れたことは感慨深い。
 いまここに収録した俳句は、千家さんの十五歳から二十歳までの作で合計四九四句である。銀箭峰時代の作品に限定して一本を編むことにしたのは、千家さんの芸術的生涯にはその出発点において、銀箭峰時代と画すべき一時期があったからである。又、そのことをなつかしんでくれる人々のいることを思うからである。千家さんが俳句の師としたのは子規門下の佐藤紅緑であり、主として拠った俳誌は紅緑が主宰した『とくさ』であった。ともに『とくさ』で競い合った俳人には、伊藤葦天、大野一星、佐藤酔花(惣之助)、秋山秋紅蓼等の諸氏がある。千家銀箭峰の句集を編もうという企ては昔からなかったわけではない。昭和十四年当時出版されていた『桃青』という小冊子があった。千家さんの長男宏さんが仲間の若い俳人たちと作っていた十頁の俳誌である。三号まで続き中絶したがその三号目に――近いうち二百句位精選して元暦句集を出そうと思う。――という記事が載っている。しかしこれは実現せず、宏さんは数年後にビルマで戦死した。又、一本の編まれることを切望していた嘗ての俳友秋紅蓼氏もその完成をまたず十五年前に逝去された。いまや千家さんの知友は殆んど絶えてのち、漸く銀箭峰句集が上梓されることになった。まことに感慨無量なものがある。
(「あとがき/小松崎智」より)

 

目次

序 永見七郎

  • 明治三十七年(四六句)
  • 明治三十八年(一二二句)
  • 明治三十九年(一五一句)
  • 明治四十年(一三九句)
  • 明治四十一年(三五句)
  • 明治四十二年(一句)


あとがき 小松崎智
略年譜

 

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