1999年5月、七月堂から刊行された嵯峨信之の聞き書き自伝。聞き書きは栗原澪子。
この「聞き書き」を活字にすべきかどうか、私は長いこと迷っていました。「聞き書き」といっても、これは、質問の力によって、はじめて引き出された領域のほとんど無いもので、「嵯峨さんのお喋り集」とでも名付けた方が、多分、似つかわしいものです。
その、お喋りの山のなかにいるのが、果たして嵯峨さんなのだろうか。これが、私の迷いでした。
テープのなかの、嵯峨さんの表情ゆたかな声は、何度くり返し聞いても私の心を洗います。どれだけ嘆息させられ、また、笑いに誘い込まれたかわかりません。ワープロ打ちした原稿を読み返してすらそうです。しかし……と、又してもやってくる反間のもとはと言えば、嵯峨さんの詩、嵯峨さんの手紙、嵯峨さんの「半年譜」、つまり、嵯峨さんの文字表現の精彩が、片や、輝きのぼるからです。
実は、この「半年譜」(青土社版嵯峨信之詩集)の下書きは私が作りました。つまり、年次と事項を並べたわけでした。その下書きノートを嵯峨さんにお渡しして、約十日後、これが、嵯峨さんの原稿用紙の上に、<自己「半年譜」次第〉という作品となって現われ出た時のショック。この輝きの与えたショックこそ、私に「聞き書き」の纏めをためらわせ続けた元凶だったようです。
最初のテープ採りから十七年、迷いの上に私の非力が加わって、遅すぎる纏めとなりました。嵯峨さんは、あの通り悠々たる時の持ち主でしたから「聞き書き」の出来を心配されたこと、最後の入院の前日まで「お喋り」の続きをして下さいました。不出来は仕方ありません。とにかく、語りに語って下さった、嵯峨さんの真心に応えたいと思います。
整理を先送りしている間に、テープの内容がダブり、予備知識のなかった頃の質問と事情通になっての質問が、ところにより入り混じっています。一方、話の順序、採否など当然あることで、記録が、ある部分編集されていることは言うまでもありません。
「ぼく」という際に、嵯峨さんは、詩にしても散文にしても、「僕」とは表記されませんでした。それを知りながら、迷った末に、ここでは「僕」を使うことにしました。他にも、表記に関しては、さまざま迷いの跡が残ったままになりました。
新川和江先生から、度々励ましのお言葉をいただき、どれほど力づけていただきましたこと
か。嵯峨さんの詩の初出捜しの、困難なところを埋めて下さった大西和男さん、索引を付けて下さった林堂一さん、校正を手伝って下さった以倉紘平さん、宮地智子さん。これら稀有なご好意は、みなさんの、嵯峨さんに寄せられるおもいに他ならないでしょう。この小記録が、その美しいおもいに背かぬものでありますように。
(「あとがき/栗原澪子」より)
目次
黄金の砂の舞い
放浪
「文春」時代
ぼくは生きた
- 矢の倉書店はじめる
- 大成しない夢雑誌「冬夏」のことから遡って
- 有田郡御霊村
- 山ノ内家
- 「おまえ堅いんだってねえ」
戰後年譜
昭和二十年・四十三歳~平成九年・九十五歳まで
あとがき
索引