1976年7月、思潮社から刊行された柴田恭子の第3詩集。装幀は草野心平。
柴田恭子と何時出会ったのか、今となってはさっぱり思い出すことが出来ない。何時の間にか、「ヴェガ」の同人でありそして「歴程」の仲間であった。
出会いに強烈な印象がなく、空気を吸うのと同じように、不思議もなく十年以上も付合ってきた。時々読みかえす『ニューヨークの37階のアパート』(一九六四年・思潮社刊)と『ウエストサイド物語』(一九六七年・思潮社刊)の方に、むしろ鮮明な柴田恭子のイメージが広がってゆく。
アメリカに留学してでもいたようなこの本のタイトルに驚かされたものだったが、本人はけろりとして「アメリカには行ったこともなければ見たこともない」などという。
こう書けば、大変大胆な人間のように思えてくることと思うが、柴田恭子そのものは、大柄なすっくりした体つきのなかに、まるで赤ん坊のような無垢さと、それと裏はらに、繊細な人に気どらせない思いやりなどがあって、そのやさしさには母なる大地のような、なつかしい匂いがある。
第三詩集である『他人とあたし』の中にはその柴田恭子の特質が良くも悪くも出ているように思う。悪くも……というのは、詩がまずい、という意味ではなく、柴田恭子は根っからの善人なのである。あきれるほどのお人好しで、その清らかさというものは、大変薄気味の悪いものである。
かって、突然結婚した(と、当時は思った)柴田恭子に、結婚した理由を聞いたのは、子供が二人も生まれてからであった。
「アノネ。わたしに結婚を申し込んでくれたはじめてのひとだったんだもん。」あまりにあっけない返事だったので私の方があわててしまった。母親となってしばらく詩から遠去かっているように思われていた時期には、時折、電話などで話すことがあった。
長男坊が遊び過ぎて、帰宅の時間を守らないから外に突き出しておいたら、次男坊が、「僕もお兄ちゃんと外に立ってるー」。といって、二人で縁側に立っているという。そのうちに、近所の奥さんが助けに来て、お仕置がおじゃんになってしまった……私はガス・ストープが赤々と燃えているそばの受話機を握って、大笑いしたものだ。
真夏に御主人と二人で飲む酒屋のビール代の付けを聞いて、「高すぎる、高すぎる、安ウイスキーにかえなさい」。などと、他人の家の経済にあらぬことを口走ったのは私だった。「でも、最初の一杯がおいしいでしょう。可愛そうで……」。誰が可愛そうなのかわかっているから、もうそれ以上聞かなかった。
こんなことを書いて、何が柴田恭子の詩の解説か、といわれそうだが、柴田恭子ほど、てらいも嘘もなく、つらつらと詩を書いている人は少なく思えるからだ。柴田恭子の生家は柴田家の分家であり、富山城の殿様のお召しになる着物の染物屋だったという。歴程祭の時などに、アラ?と思うような着物を着て、恥ずかしそうに体をすくめている事がある。両親の家系が染物屋であった為、娘の為に親が選んであつらえた、といった風の優雅な着物なのだ。「お父さんが見に来てるのよ」と、小声でいう。
現在ではその染物屋を廃業して、一人娘だったという柴田恭子の母親はお医者さんである。何故か分家には人が育たず、やっとその一人娘に五人の子供が生まれ、その中の二番目が柴田恭子なのだが、柴田恭子を嫁に出す!という決断が両親につかなかったようだ。
家系を守る為――という足枷が常に柴田恭子を繋ぎ止める。何気なく読んでいけば、カフカや、カミュを想起させるような語り口の初期の作品に、その苦渋が屈折して表現されているように私には思える。やさしい柴田恭子の、せいいっぱいの抵抗といったものを私は感じとる。
一人娘で大切にはされたものの、本家にあずけられて育ったという母親は、柴田恭子にあらゆる影響を与え続けたのではないだろうか。或る時は敬服し、或る時はその重圧に耐えかねたように思う。
建築家だった父親が隠退した後も、「生きていたら、九十五才ぐらいまでは医者を続ける。」という母親から脱出を試みながら、遂にその腕の中から逃げ出すことは出来ない。
柴田家においては、使命感のように家族が殖えることを願ってきたふしがあり、柴田恭子はそこに生と裏はらの死の意味と直面する。
第一詩集・第二詩集において、おかあさん、お父さん、弟、あたし、恋人、蛙、象、兄、たにん、あなた、いもうと、女、あのひと、と、歌い続けて、第三集では、さらに、私の子、尼僧、老婆、おとなりの奥さん、主人、部長さん、先生が加わる。
『ウエスト・サイド物語』の中の詩編「たにんとあたしについて(Ⅰ)」ではたとえば たにんはあたしにとってぶどうぱんのぶどうであるかもしれない
たとえば あたしはたにんにとってぶどうぱんのぶどうであるかもしれないと歌った柴田恭子は、第三詩集『他人とあたし』。の「他人とあたしについて(Ⅱ)」で
あなたはもうぶどうぱんのぶどうじゃない
あたしはもうぶどうぱんのぶどうじゃないと歌っている。『ウエスト・サイド物語』では、あたし以外のひとはたにんであり、ひょっとして、あたしもたにんかもしれないという柴田恭子の認識は、第三詩集『他人とあたし』では、「かあさんは出て行きます」というと、「いっしょに行こうよね」という「あたしの子供」がいるのだ。あたしはそのような他人でいまがんじがらめ。だから――
もうあたらしい他人は
けっしていらないのです。と言いきっている。ジャーナリストである御主人と結婚してからも、大学の英文科の講師としての仕事を持ち、二人の男の子を育てながら詩を書き続けている柴田恭子の世界は、
イッテシマッタと悲しむな老婆
「イッテシマッタ――黒島の老婆によせて」より)といいながら、
おまえは小さくていつも私にまとわりついている
そんな子供でなくてはならない
「献歌」より)一方では、子供が大きくなってイッテシマウ日をおそれる母親でもある。『ウエスト・サイド物語』の中の「ソンブレロの島」では空腹のあまりに、若い女は母親を殺し、若い母は幼い子を殺してたべた、とあるが、『他人とあたし』では、子供の病気に脅える母親となり、
おまえをこの腕に抱きしめる事が
一日に何度もある
そんな日が又くる
あとすこしで
(「全快」より)柴田恭子の母性愛をあますところなく現わしている。それは、自分の子供のみならず、他人に持ち続けている柴田恭子の愛も母性的であり、その為にこそ疲れて、自分自身や他人が疎ましくなり、「わたしと他人について」考えこんだりするのだ。そのような柴田恭子のそこ知れぬほどのやさしさは、柴田恭子が詩を書く原点であろう。
私ははばたいています
肩が今焼けるように痛みます
首を腕に持ちたいのです
首がいたいのです
決して横になって眠りたくないのです
眠ってしまうと
そのままずっと眠りそうな気がするのです
「めざめ」より)
目次
Ⅰ
- 秘密
- 白い唇
- 尼僧
- 朝
- 春
- 病気
- 全快
- 献歌
Ⅱ
- 男たちの季節
- 他人とあたしについて
- 何となしたのしいはなし
- イッテシマッタ
- 予感
- 誤解
- つたの中
- シーソー
- 約束
- めざめ
- 雄鶏
柴田恭子の世界――血の系譜 新藤涼子