1985年10月、書肆山田から刊行された清水哲男の第11詩集。表紙は渡辺華山「一掃百態」より。
ひとりの、ささやかな表現者として生きつづけるということは、たえず自己の空虚に突きあたりつづけるということでもある。その空虚さのなかで、空虚そのものを対象化すべく努力するいう作業にしがみつくことの意味を、空虚の側から説明させれば、なにがしかの好意的な解答も出てくるのであろう。
人を詩にいざなうものは、おそらくはその種の解答を半ば本能的に求めている心根から発していると思われる。しかし、現在の自己が過去の自己からは連続的に到達できない極限点であるのだとすれば、決して詩にすることのできないものこそが、実は自己の空虚そのものでなければならないはずなのであった。
そして、都市の空虚もまたこの文脈に似たかたちで論じられようが、ただ都市において決定的なのは、その存在と空虚とがまごうかたなく人間の空虚に根拠を持たぬシステムのなか以外には存在しえないという点である。
したがって、その昔には「君はよくバンドンを突け」(大木惇夫)という詩のひとひらも生まれたというわけで、都市という名の存在と空虚は、私のようなささやかな表現者といえどもが、自己の空虚に対する呆然とした感覚の延長でとらえることができそうな数少ないターゲットのように思われてくる。いや、本当は、そんな錯覚におちいりやすい数少ない素材のひとつなのかもしれないが、ともかくも私にとっての「東京」はこのようであり、そして、このようであったこともあるという次第だ。
(「あとがき」より)
目次
- きみたちこそが与太者である
- 塩まいておくれ 景気をつけろ
- 試合だから集っている、私たちは
- もう少し眠っていたい者の歌として
- 夜の台所で情を抒べるとすれば
- 昔からだ
- 手を歌う
- この詩を書いたあとで、スタンカに会えた
- 雪の降る日に
- 某年某夏
- さびしい山形よ
- うるわしき、あかるき国
- 風邪のたのしみ
- 世界のラジオ局の世界
- ごちそうさま
- 元気、出しなよ
- 重ねておいて、信じたく……。
- 夏・1
- 夏・2
- 恒例新春演説集のうち