1971年8月、童心社から刊行された女性詩アンソロジー。編者は新川和江。装画は堀文子。
日本の伝統的文芸である和歌(短歌)や俳句も、広い意味では詩に数えられるが、今日、私たちが<詩>と呼んで、読んだり書いたりしているものは、明治の初期にヨーロッパからはいってきた表現形式で、日本に根をおろしてからの歴史は、まだ百年に満ちていない。それまでは詩といえば、これまた中国の詩を模したいわゆる漢詩で、漢字のみを用いて構成する詩は、角ばった趣きからいっても、男性のものであった。女性はもっぱらやわらかな大和ことばを用いた和歌を書いた。「敷島の道」といって、三十一文字の歌を書くことは、男女を問わず、日本人のたしなみのひとつでもあった。
明治十五年、外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎ら、東京大学の教授や助教授でもあった詩人たちが、ヨーロッパの詩の技法をとりいれて試作した、<和漢西洋ごちゃまぜ>の詩は、「新体詩」と名づけられて、それまでの日本にはなかった新しい詩の夜明けを告げる。けれど、女性の詩への進出は、それより少し遅れ、女性詩の元祖ともいうべき記念碑的な作品「君死にたもうことなかれ」が、『みだれ髪』の歌人與謝野晶子によって書かれるのは、明治も三十年代後半のことになる。精神の自由なはばたきを託するのに、詩という表現形式が、日本古来の文芸である和歌や俳句が与えてくれなかった、のびやかでつよいつばさを提供してくれたことは、のちに、詩人としてよりも、日本女性史の研究家や婦人運動家として、鮮烈な名をとどめることになる、高群逸枝、伊藤野枝といったひとびとが、はげしい情熱を詩の上に吐露している事実をみても、うなずける気がする。
だが、自由という語が含んでいるあらゆる要素をはなばなしく爆発させて、女性詩人たちが、それぞれの個性をぞんぶんに発揮し、多彩な活躍ぶりを示すようになるのは、婦人の手にも参政権が与えられた、第二次大戦終結後のこと、といってよいだろう。
晶子以後、現代に至るまでの女性詩人十六人の作品を年代順に配列した、このアンソロジーは、明治・大正・昭和三代にわたる、日本の女性の精神史として読み味わってみても、ひとつの流れをはっきりと汲みとることができると思う。
ここには収録が適わなかったが、左川ちか(故)、中野鈴子(故)、馬淵美意子(故)、坂本明子、新藤千恵、内山登美子、武村志保、手塚久子、牟礼慶子、片瀬博子、石川逸子、多田智満子、富岡多恵子、高良留美子、山口洋子、吉原幸子、財部鳥子、金沢星子、香川紘子、会田千衣子、<つばさある精神の所有者>たちの名を挙げはじめたら、とどまるところを知らぬほどに、わけても戦後の女性詩人の台頭ぶりは目ざましい。
(「<解説>つばさある精神の所有者/新川和江」より)
目次
- 與謝野晶子
- 君死にたもうことなかれ
- 女
- 深尾須磨子
- 座
- 笛吹き女
- 白鳥
- 竹内てるよ
- 頬
- まんさくの花
- 林芙美子
- 秋のこころ
- 苦しい唄
- 永瀬清子
- 私の足に
- 梢
- 中村千尾
- 日附のない日記
- あどけない手紙
- 高田敏子
- 白い馬
- 逃げた小鳥
- 静かに訪れて
- 三井ふたばこ
- みち
- はなしがい
- 遠景
- 滝口雅子
- 男について
- 詩を書くものは
- 石垣りん
- 表札
- 私の前にある鍋とお釜と燃える火と
- 堀内幸枝
- わが住処
- 三時
- 茨木のり子」
- わたしが一番きれいだったとき
- 六月
- 小さな娘が思ったこと
- 岸田衿子
- 今日の思い出
- 忘れた秋
- 一日の物語
- 新川和江
- わたしを束ねないで
- どこかで
- 白石かずこ
- あそこを流れていくのは
- 緑色のらんち
- 落下
- 吉行理恵
- 悲歌
- 羊を抱いて
- 春
解説 新川和江