1998年11月、国文社から刊行された山田直(1928~2015)の第10詩集。
旅の詩集に秀作は少ないといわれる。この指摘の根拠はいったいどこにあるのだろうか。旅を主題とする作品をまとめて一冊の詩集とし、敢て世に出そうとするからには、まずこの点を自分なりに考え、その答えをしっかりつかんでおかなければなるまい。
どなたでも第一に浮かんでくる単純明快な解答は、旅の詩はその詩を書く人間が自分の生活基盤から切り離された情況にあるからだ、換言すれば、厳しい人間の条件をすべて受けいれる姿勢を欠いたまま詩作しても、そこからその詩人の全人格を表現した作品は生まれるはずがない、という視点からの批判であると思う。
確かに旅へ出ると、精神は日常生活の重い足枷から解き放たれ、外界の刺激に反応して肉体から抜けだして自由に飛びまわり、感性や情感まで伴って新鮮な対象に寄り添うのが感じられる。多くの発見があり、新しい視点の獲得によって自己の姿が違って見えてくることもある。そこに旅の無上の楽しさがある。たとえそのときはつらく、灰色の旅程であってさえも、精神に刻みこまれた強烈な印象はいつまでも意識下に生き残り、折りに触れて鮮明に甦るのである。
ただし、私の場合、これは国内旅行のときだけに限られ、海外旅行となると事情は大いに異ってくる。国内ならどこへいってもその風土に順応できる。もう少し立ち入って弁明すると、普段は貧弱と自他ともに定評のある私の肉体は意外に頼もしく、多少体調が悪くても、肉体の存在を忘れていられるほどしっかりと安定していてくれる。だからこそ精神は肉体から分離して自由に外界へ出ていけるのである。ところが異国の土を踏んでしばらくすると、不調になった機械のように肉体がぎしぎしと音を立てはじめる。医学上の症状ではない生理的な苦痛、あるいは奇妙な表現だが肉体の精神的不安定のようなものが激しくなり、耐え難くなる。これが本物の精神に伝染し、私の自我がばらばらになっていくのを意識する。
この症状を引き起こす原因は私個人の歴史のなかにひそんでいるようだ。私は文学を志し、外国文学を学んだ。国文学ではなかったということは日本の文学風土に安住できず、異った未知の世界に憧れたことを意味する。単純にいえばエキゾチズムへの嗜好であり、この心理的傾斜は現在でも否定し難い。しかも私の青春は終戦直後の混乱期に当たり、まともな留学を体験できた人は数えるほどしかいなかったから、ようやく憧れの国の土を踏んだのは人格形成ができあがった四十歳の時点であった。若い時代なら、異質な風土と文化を柔軟に受けいれ、それを貪欲に吸収して自己形成を成し遂げ得たであろう。それが若さというものだ。
だから私のカルチャーショックはそれだけ大きかった。書物で得た知識で、これはすばらしいところだ、と予想していたものが、実際その場で触れてみると大したものでなく、逆に大したものではないと軽くみなしていたものが、乗り超え難い巨大な存在だったことがわかってきた。それより第一、異国の文学を学び、その文化に憧れておきながら、そしていくぶんなりとも西欧風の精神を、ものの考え方を、身に付けたはずだと己惚れていたのに、自分が骨の髄まで日本人であるという事実を痛烈に思い知らされたのである。深刻な絶望感に陥ったのは当然であろう。
その後なん度か海外へ出かけるようになったが、肉体の不協和音は馴れによって衰えるどころか、反対にますます強くなってきている。そして同じように精神をずたずたにされて帰ってくる。そんなわけで楽しい旅の詩集をお届けできず、まことに恐縮だが、私にとって他者の土地はいまだに戦場であることをご理解いただき、乱戦に参加した一人の人間の生の記録として読んでいただくことをお願いいたしたい。
本詩集に収めた詩の初出は「日本未来派」、「オルフェ」、「三田評論」誌上であり、それに未発表作品数篇を加えた。
(「あとがき」より)
目次
雲(序詩)
マレ・ノソトルム
- 化石の街
- カゴシマ通り
- 濃密な非在
- 鐘
- 目
- アリバイ
- カリアチッド
- デジャ・ヴュ
- サラミス湾
ミディ・ル・ジュスト
メトロポリタン
- 砂
- 聖心
- リーブル・セルヴィス
- 河畔の秋
- さらば いとしの町よ
ヌーヴェール・テール
- 虹の橋
- 坂道
- ヴェガスの昼
- 原色の闇
- 潜入そして脱出
- チュファナ
エテルネル・ルットゥール
- アガニア
- 城壁
あとがき