2003年11月、産経新聞ニュースサービスから刊行された喜多由浩による満州唱歌取材ルポ。装幀は、新昭彦(ツーフィッシュ)、装画は加藤千香子、図版作成は、パルス・クリエイティブハウス、写真は、日本近代音楽館、産経新聞社等。CD付録。
「待ちぼうけ」や「ペチカ」が満州唱歌だった、というと驚く人が多いかもしれない。どちらも、北原白秋作詞、山田耕筰作曲。誰もが一度は口ずさんだことがある二つの歌は、大正十二(一九二三)年に、満州(現中国東北部)に住む日本人の子どもたちのために作られた。
白秋や山田だけではない。大正の終わりから昭和にかけて、野口雨情、大和田愛羅、島木赤彦といった内地(日本)の「巨匠」や園山民平に代表される満州在住の音楽家たちが、こぞって曲や詩を提供し、百曲を超える満州唱歌が作られた。満州っ子はみんな、満州唱歌を歌って育ったのである。
なぜ、満州だけの唱歌が作られたのか? それは、内地と満州の風土があまりにも違ったからである。「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」(故郷)や「今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと」(汽車)と歌っても、満州生まれの子どもたちには、何のことだか分からない。そんな景色は満州には、ほとんどないのだから。
当時、満州(関東州を含む)には約百五十五万人の日本人(終戦時、軍人を除く)が住んでいた。満州の教育者たちは、「子どもたちが、満州の自然や風俗に親しみを感じられるように」との願いを込めて満州唱歌を作ったのだ。
だから歌詩には、こうりゃん、ロバ、ペチカ、ロシャパンなど、「満州の風物」があふれている。メロディーやリズムも日本の唱歌とは違い、土地の匂いがある。間違っても、満州唱歌が軍や日本政府のプロパガンダに使われることはなかった。少なくとも戦争が激しくなるまでは……
こうした独自の唱歌が作られたのは満州だけである。それにはいくつか理由があるが、ある時期まで日本政府(文部省・当時)直轄ではなく、満鉄(南満洲鉄道)が主体となって教育を担ったこと、当時の満州の音楽教育のレベルが高く、自由闊達な雰囲気があったことも背景にあった。
戦争の激化とともに、満州の教育は、徐々にその独自性を失っていく。満州唱歌が作られた期間は、わずか二十年前後に過ぎない。ただ期間は短くとも、それは、満州という土地と教育者の情熱が生んだ「ひとつの文化」であった。
満州唱歌は満州で育った人の心の中に、懐かしい思い出や風景とともに深く刻みこまれている。異郷に暮らす日本人として、「満州唱歌が心のよりどころだった」という人もいる。そして、帰る故郷を失ってしまった今では、満州唱歌に寄せる思いは、いっそう強い。
(「まえがき/喜多由浩」より)
目次
まえがき
第二章 輝ける時代、そして……終焉
- 巨匠主義からの脱却
- 満州育ちの「わたしたち」
- ◇高野悦子氏インタビュー
- 二つあった「娘々祭」
- 唱歌が教えてくれた満州
- ◇ジェームス三木氏インタビュー
- 薄れる満州色、昭和十五年の改訂
- 最後まで残った「たかあしをどり」
- 満州唱歌の終焉
あとがき
CD収録曲
- わたしたち
- アキ
- バクチク
- やなぎのわた
- なみ木のざんぱつ
- たかあしをどり
- ぺんぺん草
- 娘々祭(小学生版)
- 一りんしゃ
- こな雪
- 空の握手
- 望小山
- 星が浦
- 枯木原
- 娘々祭(女学生版)
- 蒙古の旅
- 五月祭