オリオンの哀しみ 氷上恵介

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 1985年1月、氷上恵介遺稿集出版委員会から刊行された氷上恵介の遺稿集。画像は1995年9月第3版。

 

 文芸活動等を通じ、全国の療友の間でも、その名の知られた氷上恵介(藤田四郎)君は今年の一月五日急逝し、六十才十か月の生涯を閉じましたが、余りにも突然な、彼の死を悼み、遺稿集を出そうと計画したところ、親交のあった多くの人々の大きな協力があり、ここに「オリオンの哀しみ」の出版を見ることができました。
 氷上君は昨年十一月二十七日、急に具合が悪くなって病棟に入り、クモ膜下出血ではないか、といろいろ手当が尽くされましたが、最終的には脳卒中ということであり、私たちには悲しみ以上の衝撃であった、といってよいでしょう。
 もともと見た目よりも健康そうで、内科へ行ったことのないのが自慢、といった感じでしたが、今はただ、面影につながるものを形にして残したい、という思いで一杯です。
 氷上君は、そのペンネームでも知られる通り、兵庫県氷上郡で生まれ、多感な年少時にすでに発病したのでした。まだ絶対的な隔離政策の確立される以前であったのに、そしてハンセン病の恐ろしさも人生への絶望も知らないまま、家族を悲劇から守るために家族と別れ、彼はキリスト教系の目黒慰廃園に入園、同園を経て全生園で大方の療友と同様、人生の大半を過ごしたのです。
 療養所にはいつの時代にも、カブキや絵や書や詩、俳句、短歌、そして創作等に打ち込む人々がいましたが、氷上君はいろんなことをやりながらも、早くから特に文学仲間のあいだで頭角をあらわし、戦後のプロミン出現後の文芸復興期に「山桜(『多磨』の前身・昭和25年11月)」の文芸特集号で「孤愁」が一等になったのを手始めに昭和三十二年までの七年間に「姶良野(昭和25年2月)」へ「愛情記」を、「山桜(昭和26年2月)」へ「蚊取線香」を、「多磨(昭和27年11月)」へ「オリオンの哀しみ」を、「芙蓉(昭和30年8月)」へ「裁き」を、「菊池野(昭和30年12月)」へ「いびつな月」を、「姶良野(昭和31年1月)」へ「野分け」をそれぞれ投稿、同人誌の「多磨文学(昭和32年12月)」に発表した「勝つということ」を別にしてすべて全国コンクールで入選しており、「オリオンの哀しみ」は選者(野間宏)の推せんでさらに「新日本文学(昭和30年4月)」にも、全国文学集団創作コンクール入選作として掲載されたのでした。
 以上のなかから、本書には「孤愁」と「オリオンの哀しみ」の二つをおさめましたが、文学を志す者たちが「寒鴨」ほかを演じたときの、園内を騒然とさせたスキャンダルを材料とした「孤愁」について、選者(椎名麟三)は「ひとりの女をめぐる男たちの動きや性格をそれだけ書ければ立派なものと思う。そして最後の締めくくりもきいているし、主人公の救われなさが、十分に表現されて、人生の象徴にまで高まっている」と評しており、それは当時、芥川賞候補にノミネートされた程の彼の持ち味の最も良くあらわれた作品です。
「オリオンの哀しみ」はゴム長靴の支給を要求して洗濯作業をサボタージュし「総動員法のもと、そういう考えは園の運営方針になじまない」と、草津の重監房送りとなって死んだ山井道太の「洗濯場事件」をヒントにしていますが、実際はもっと深刻であったし、詳しく調べて書くべきであった、と本人も「感傷旅行」で述懐している通りです。とはいえ、それでも「オリオンの哀しみ」には十分、訴えるものがあり、全生園を代表する小説の一つ、といってよいでしょう。
 その他、精神病棟の付添夫になった「私」が、そこに純粋なものを見つけ、「白痴に近い女」に愛情を抱くようになっていく過程を書いた「愛情記」、自ら「感傷旅行」のなかでもいっている――妹の失踪事件をヒントに、その鎮魂のために書いた、という「蚊取線香」、慰廃園を出てアパートを借り、写真学校に通うなかで出会った女性との、愛してはならないものを愛した悲劇を、東京での経験をベースに書いた「裁き」、病気の父母から生まれ「未感染児童」として療養所の付属保育所で育てられ、社会に巣立った若者が、貼られたレッテルの故に辛酸をなめ、父親を殺すまでに至るいきさつを書いた「いびつな月」、一国一城の主たらんとした夢破れ、野盗になって永らえた主人公が、病気の顔を白布で覆い、二十騎ばかりの手下を従え、戦乱に疲幣した古里の様子を見に帰る姿を足利氏の台頭と故郷の歴史を舞台に書いた「野分け」、そして、垣根の外で警察による患者専用留置場の建設がはじめられ、予防法闘争を経験した一般入園者と自治会役員の、或いは迷い、あるいは英雄的な、それぞれの闘いをいきいきと書いた「勝つということ」等の作品にもそれぞれの良さがあり、いつかまた人々に読まれることがあってもよいのではないか、と思います。「さて、治る病気になったこと、予防法闘争を闘ったこと、などにより、療養所は大きく変りました。社会復帰者が増え、文学仲間も少なくなっていきました。「らい文学」というものがあったとすれば、幸か不幸か、その土台が崩れることになったのです。園内の生活も、内職や労務外出、実益を兼ねた趣味を志向する風潮が強まり、人々の興味は整形やバスレクやサイクリングや自動車運転やテレビやパチンコなど、かつて望んでも無理であったものへと移っていきました。
 創作のペンを放り出し、氷上君は、そんな時代に補助教師となり、分教室の病める少年少女たちと共に過ごしたのです。しかし、その子供たちが次々に巣立ってゆき、最後の二人を邑久高校に送り出す日がくるのでした。
 新発患者が激減し、在園者の老令化が顕著になっていきました。看護や処遇や施設整備や啓蒙などを主眼に夢中で前進してきた患者運動の面でも、明日をどう生きるか、ということだけでなく、昨日をどう生きてきたか、そのことをぼけてしまう前に記録しておくべきではないか、という気運が生まれ、創立二十五年史と開園七十年史が全患協と多磨全生園患者自治会の要請で編纂されることになり、氷上君は他の四人と共に編纂委員として相次ぎ「全患協運動史(昭和52年8月31日・一光社刊)」と「俱会一処(昭和54年8月31日・一光社刊)」の執筆に当たったのでした。
 二冊の本の編纂に健筆をふるったあと、その余勢を駆って、といったらよいのか、或いは、彼のなかで何か先を急がせるような予感があったのか、しかし、それでも、残念ながら「感傷旅行」は未完に終ったのです。ただ、いえることは、編纂委員になったことが、氷上君に「忘れた歌」を思い出させたのではないかということです。
「感傷旅行」は、分教室最後の二人を長島へ送ってゆき、邑久高校新良田教室の入学式に列席した帰途、親友であり、長い間、一緒に子供たちの世話をしてきた寮父の三木さんと一晩中語り明かしたことから執筆を思いたったのでしたが、実際は本人と、四国遍路の旅に出たまま消息を断ってしまった両親と妹の墓碑銘のかわりに、との意志があったものと思われます。
「感傷旅行」は、単なる個人的な伝記、というのではなく、彼が慰廃園以来出会ったさまざまな人と出来事が次々に登場、それは、治らなかった時代から、治る時代への、療養所の変遷そのものであり、残酷な政策を進めたものへの告発であると同時に「病気はそっちの方にある」という社会批評でもある、と思います。
 殊に教育のあり方が問題になっている今、第六章「分教室の生徒たち」は「教育とは何か」との問いに答えるべき、実に多くの示唆を含んでいる、といえるでしょう。親から引き離され、劣悪な教育環境で病気とたたかいながら、しかし、たくましく成長していった子供たちの世界が、そこには生き生きと描かれ、それは本書のハイライトでもあると思います。
 氷上君は写真部と放送部の草分けでしたし、自治会文化部や盲人会(世話係)や「多磨」編集部で働いたこともあり、最後は作業療法室で陶芸に打ち込み、いつも園内文化の担い手としての位置にいたのでしたが、何といっても学園教師が最も長く、力の入れ方も違い、そのために燃焼してしまったのでは、とさえ思えるのです。
 六十才ではまだ若く、惜しい才能を失った、と思いますが、氷上君は自分の見られなかった夢をすべて教え子たちに託し、その前途を気遣い、励まして止まなかったのであり、彼自身としては早いとも、意外とも、残念とも思わなかったのではないでしょうか。彼は葬儀用の自画像までちゃんと用意し、その役割を終えたのです。
「感傷旅行」は昭和五十四年七月から五十九年一月までの「多磨」誌に毎月、殆ど休むことなく連載されたものです。ただし、最後の絶筆の部分はメモでのこされたものであり、また全体的には長大に過ぎ、本書では若干短縮いたしました。なお「孤愁」について、旧かなを新かなづかいに改めました。
 序文については、元気な時の生活および倒れてからの病床で大変お世話になった第三センター長であり、副園長である成田先生にお世話になりついでに書いて頂きました。氷上君が生きていたら、やはり「成田先生に頼もう」というに違いない、と思います。
 本書の出版に当たり、療友の三木、室木、T・S、長渡、M・T、荻原の皆さんに資金の援助を頂きました。
 また、本書の装丁は作業療法室の栄一男さんに、原稿の整理を大竹章さんに、それぞれお願いしたほか、若手の六人の職員のご協力とコロニー東村山印刷所のご配慮を頂きました。記して感謝いたします。
(「あとがき」より)


目次

第三版の発行にあたって
再版にあたって

  • オリオンの哀しみ
  • 孤愁
  • 感傷旅行
  • 第一章 出発
  • 第二章 東京の生活
  • 第三章 入園当時
  • 第四章 学園教師そして敗戦
  • 第五章 ある別れ
  • 第六章 分教室の生徒たち

あとがき

 

書評等

「オリオンの哀しみ」戦時下のハンセン病療養所(清原工)
 


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