1984年10月、ベルデ出版社から刊行された除村ヤエの第2詩集。除村は、ロシア・ソビエト文学者・除村吉太郎の妻。
一九四五年八月一五日、私は病んで、群馬県の生家で寝床の上にあった。母が例によって私のお昼を運んできたが、お膳を下に置くなり、体ごとのりだすようにして、異状な目つきで私を見据え、ガサッと一声「日本がいくさに敗けたよ」といって、あとが云えないのだった。母は大の天皇びいきで、また熱心なクリスチャンで、いわゆる戦時下の愛国婦人の典型のような人だった。
天皇敗北という現実によって、まっくらな絶望の淵に追い落とされていたのだ。一方私にとっては、待ちに待った敗戦であった。その感激に胸はいっぱい、そして眼から涙がふきこぼれた。母は私の涙を見るなりもとの傲慢な女地主にかえり、尊大な調子で「家(うち)じゃお父さんがお前と考えがちがうんだからねェー、そのつもりでいておくれ」といい放ち、ゆうゆうと母家の方へ渡り廊下を帰っていった。母家はしんとしずまりかえり、墓のようだった。やがて、弟が私を非国民として憎んだことなどなかったみたいに、「ヤエちゃん」と昔のような声でいい、私の枕下に膝を折り、おびえた小声で「日本はどうなるんだろうねェ」といった。私は内心憤然としたが、冷ややかにいっただけだった―。そうだねえ、天皇の地位が変ることは事実だろうねェ!」
そして東京の警察で拘置所の中の夫が天皇の敗北を知らされるであろうことを私はじっと胸にかみしめていた。あゝ、あの八月一五日を私が忘れうることがあるだろうか、記憶が働き、生命あって生きる日のかぎり!
八月一五日は私にとっては年々めぐってくる日本敗北記念の祝祭日のような一日である。
今、一九八四年、私は第二詩集を出そうとしている。あれから数えて四十年、現代は詩にとってことばの困難な時代である。
詩はそれ自身の方法論を持たなければならない。私は自分としてともかくも小さいもの、力のないもの、人に踏まれそうなもの、微小な生命(いのち)たちをその生の原点において詩の主題として、うたうことを試みた。そしてそれを殺しのアンチテーゼとして現代とのかかわりの中で、恐怖の現実に対置しようとした。それによって私のこの現代への抗議の声がたとえ小さくとも、この集に響かせる事を願った。
目次
Ⅰ
- 私の道のうえに
- 花と人と
- 古びたカーディガン
- 岩桜
Ⅱ
- 人に死に思う
- 一心同体
- ある灯ともし頃に
- ソビエトの給仕
- ある記録
Ⅲ
- カマキリと私と
- 蝉
- 名もない小鳥
- お玉じゃくし
- コオロギ
- ハサミをもったマウス
- このコオロギという虫は
Ⅳ
跋 増岡敏和
あとがき 除村ヤエ