2008年9月、書肆山田から刊行された新延拳(1953~)の第8詩集。装画は浜田洋子、装幀は亜令。
たとえば、丈部稲麻呂(はせつかべいなまろ)という名。駿河の人。万葉集巻二十の防人に「父母が頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぞ忘れかねつる」という歌を残しています。あるいは、下野の人、今奉部与曾布(いままつりべよそふ)という名も見えます。柿本人麻呂、山上憶良、持統天皇、山部赤人、額田王などの代表的歌人のなかに混じって、たった一首をもって、万葉集に存在している人たち。その人となりはわからず、かつ名前自体は符号のようなもので、それ自体は意味をもちません。しかしながら、彼らの歌が千二百年以上の年月をへて今日の我々とまみえることができるというのは、途方もないことでありましょう。ひるがえってみて、現代の個々の詩が読まれる可能性を思ってみると寥々たる感じは否めません。経時的な次元だけでなく、ありとあらゆる媒介や情報に囲まれた世の中において、またその膨大な出版点数からして、それぞれの詩が読者に受け取られるチャンスはきわめて少ないものと考えざるを得ません。その意味からしても、この本を手にとっていただいた方、あなたに心より感謝をしたいと思います。
今回の詩篇を編む作業を通じて、日々の生はますます不鮮明であること、あいまいであることに向き合わざるを得なくなってきているという感を強くしました。同時に、作業を終えて、「僕は大空に向かって、一本の矢を放った。それは地に落ちたが、どこに落ちたのかは知らない」(ロングフェロー)というよりも、「僕が公園で遊んでいたときに投げたボールは、まだ地面にもどってきていない」(ディラン・トマス)という気持ちの方が近いような気がしています。
(「あとがき」より)
目次
- ずいぶん遠くまで
- 青葉の風と一緒に
- 荒れ野の枕木
- 永遠の蛇口
- 詩の途中
- 点滅する時間
- D51の汽笛
- 名づけえぬものゆえ
- 耳を当てて
- この指とまれ
- 聞こえますか
- 見たな
- 絆創膏の中の指
- 地球から地球(テラ)へ
- やめられない
- 補助輪を外したよ
- たった今がなつかしい
- 欠伸から海月が
- たくさんの私
- 夕刊の頃
- そっと外す眼鏡
- くたびれた背広
- 遺失物としての自分
- 対話
- 廃王のごとく
あとがき