断崖の年 日野啓三

f:id:bookface:20190617171337j:plain

 1992年2月、中央公論社から刊行された日野啓三(1929~2002)の短編小説集。装画は黒崎俊雄、装幀は中島かほる。第3回伊藤整文学賞受賞作品。

 

 手術をしてから、一年半ほどの日がたった。
 身体は回復し始めている。
 だが意識の力は、もう元に戻ることはありえない。断崖の端から、ちらりとでも下を覗いてしまったから。
 今回は転移しないとしても、数年ないし十数年後に、再びあの断崖の光景に向かい合うことになる。多分ではなく必ず。

 あの日夜を思い出すと、意識がすくむ。

 だが少なくとも今日という一日を生きている、という事実自体が光っていた、ということが身体が回復してくるにつれて、逆によくわかってくる。
 空が、光が、さまざまな物体が、街で行きずりの人たちが、濃く魔的な気圏の中で、とても身近だった。
 その感覚が薄れ始めている。日常的な顧慮が意識を白くする。
 この白っぽい気分はいつか味わったことがある、とあるとき思い出した。戦争が終ったあとだ。こんなバカげたことは一日も早く終ればいいと怯えていたのに、生命の脅威が去ると気持の張りがゆるんだ。
(人間とは勝手なものだ。そして世界はねじれている)

 だから、退院後一年ほどの間に書いたこれらの文章は、意外に楽しく書いたのである。二枚ほど書いては、長椅子に一時間も二時間も横にならねばならない状態だったにもかかわらず。
 体験記風でも、短篇小説風でも、エッセイ風でも、そんなことは気にもならなかった。ただ世に闘病記と言われる悲愴な調子だけは、滲み出てほしくなかった。

 つねに自由でクールであることが、私の願いだ。
(「あとがき」より)

 


目次

  • 東京タワーが救いだった
  • 牧師館
  • 屋上の影たち
  • 断崖の白い掌の群
  • 雲海の裂け目

あとがき


NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索