1977年10月、国文社から刊行された齋藤怘(マモル)の第4詩集。装幀・絵は斎藤求、題字は粒来哲蔵。
詩集を編むたびに私は心のたかぶりをおぼえて来たが、今はただ淡々として、父の霊前にこの詩集を捧げる。
父にまつわる作品を、私は幾度か書こうとしたが、不思議と父の影が私のなかに落ちていない。それは十二歳で親元をはなれた、私の生い立ちのためであろう。
父は生涯を鉄道にかけた技術屋で、子供と話すことも少なく、たまの休日には、広い庭にしつらえた藁束の的に対し、黙々と弓をひく明治の男であった。
小学二年のとき、ある文集に「わたしのお父さん」と題する作文がのった。私が書いたものが初めて活字になったのである。おそるおそる私はそれを父の書斎に置いて来た。
とある日曜日、父は笑いながら「三越に行こう」とはじめて私をさそってくれた。私はほんとうにほしかった物さえ父に云えず、クレパスや画用紙を買って、家に帰ったことをおぼえている。
中学を出て、私が生涯の仕事として文学をやりたいと云い出したとき、父は一言のもとに「食えぬから止めろ」と云った。
第二次大戦のおわり、父はソ連領に近い琿春から、関東軍に捨てられた難民としてさまよい、四ヵ月目に大連(現在の旅大市)の自宅にたどりつき、昭和二十一年二月二十八日、一首の辞世を残してこの世を去った。臨終の枕辺にいた弟に、「兄貴は死んだものと思え」と父は云ったそうである。既に長男を失ない私の生死もわからない異郷で、父は何を考えて死んでいったのであろうか。
私の手許に父の胸像と額とがある。いずれも知人から返していただいたものである。父は「晴堂」と号し、決して上手とは云えない字を書いていた。額は既に古び「心随萬境」とある。
それにしても、父はずいぶんとむずかしい名前を私につけたものだ。第一、活字がないし、日本の字引にない字である。「怘」は「怙」の古字で、「まもる」と読む。父が康熙字典からさがし出した字である。
ずいぶん迷惑もして来たが、日本に一人しかない名前に、今の私は感謝している。「いにしえのこころ」という名をつけたところをみると、父にも文学にあこがれた若き日があったにちがいない。
父の墓は芝高輪の泉岳寺にある。前の詩集「後生車」も、この「石墨草筆」も、父が生まれた山形県天童市に近い、山寺「立石寺」にゆかりがある。
私には子がないから、墓守もおぼつかない。せめてこの詩集を墓前に捧げ、三十三回忌の供養としたい。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
- 遺作
- 羅列
- 業
- 影ふみ
- 石墨草筆
- きざはし
- 塩焼
Ⅱ
- 人形寺
- 人形塚
- わらべ塚
- 胡瓜塚
- 帯塚
- 戒名のひと
Ⅲ
- くるす
- 叫び
- 鞭
- 穴
- 旅の商人
- 冬の日
- 古銭
あとがき