1977年4月、書肆山田から刊行された横倉れい(遊佐礼子)の第1詩集。
初めて動物の詩をかいたときから、いつかは自分の動物たちを集めたいと願ってきました。「動物から」におさめた十六の作品はわたくしのなかの捉えどころのない何かをとゞめたしるしがあります。このなかのひとつの文字は、わたくしだけの時間の刻み目といのちの体験を吸いこんで浮びあがってきた泡立ちみたいなものかも知れません。
なぜ動物に心を動かされるのか動物にうたってもらいたくなるのかは自分にもよくは分らないのです。ただ以前から感じていることは、人間の、自分たちのいのちのあり方に納得できないで、少しでも良く変えようと踠いたり抵抗したり戦ったりすることが自由を手に入れ自分の選択した好きな生き方にひらかれた道を歩むことになると信じこんでいる傲慢さは動物――生きものたちのいのちの従順さにくらべれば哀しいものではないだろうかということです。知識とか合理性とかいうものをわれわれの最も有効な武器として生きものたちの生命のサイクルに干渉し介入することにうしろめたさを感ずる人びとは全くの少数派として扱われてしまうらしいことを、わたくしはとてもうしろめたく思うのです。
詩とはなによりもまず認識の方法であるということがほんとうだとすれば、ひとつひとつの詩篇はわたくしの定かでない生の認識過程の具現ということになるでしょう。そうであるなら一冊の本にまとめることは其処に立てば己れの存在のあらゆる襞をいやも応もなく見透かされてしまう鏡のまえに思いきってわが身をさらす行為というわけです。言葉があって、その言葉に意味があって、という事実のレンズ越しにしか収斂させられなかったこれらの表現はわたくし自身であってわたくし自身ではない怪しさにゆらめくにちがいないけれど、このなかでわたくしは、人間のかしましく騒がしい叫び声に圧しひしがれて蹲まっている動物たちの声にならない咆哮に聞き耳をたてたかったのです。其処からでてくる呟やきがどんなものか定かではないし、はっきりと聴きわけられたかどうか確かではないにしても、その呟やきのうちにわたくしはわたくしなりに、こんに表現されたわたくし――もしかしたらわたくしではないかも知れないけれど――を通して生きものたちと一緒に声にだしてみたのです。
(「あとがき」より)
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あとがき