1988年1月、至芸出版社から刊行された水谷きく子の第3歌集。
寝たきりのお年寄りのお世話をしたいと、養育院に就職したのは、昭和四十五年、いまから十八年前です。その三ヶ月後に、ひとりのお年寄りの死に、初めて立ちあいました。高橋静子さんという色の白い童女のように優しい方でした。私なりに、一生懸命お世話していたので、突然の訣れに涙がこみあげましたが、職業人として、こういう場合、泣いてはいけないと必死にこらえました。
あれから、どれほどの数のお年寄りを見送ったことでしょう。初めの決心通り、その後、涙を流すことはしませんでしたが、かわりに、大勢のお年寄りの名前もあわあわと忘れ果てていきました。惰性に流れていると気付いたとき、今度は泣かない自分を許せないと思いはじめました。
六十二年秋のある日、お年寄りたちの夕食の時間に、塩川シマさんという方が、ふうっと消え入るように亡くなりました。名前を呼んでも反能がなくなってから点滴や、酸素吸入で一年以上も頑張って生き続けていたお年寄りです。元気だった頃は、盆踊りが大好きで、櫓の上にあがって踊っていた人でした。
若い看護婦さんと二人で、死後処置をしながら、気がつくと私は涙を流していました。ふと見ると、若い看護婦さんも泣いているのです。何故か少し安心して、私も涙を隠さないことにしました。
泣いてはいけないと、自分を律したときも、泣いたっていいんだと自然に気付いたときも、その時の心の動きが短歌という形で、私の手の中に残りました。短歌は私にとって、祈りのようなものだったと思います。
(「あとがき」より)
目次
- 背のび白書
- 樂天家
- 絵葉書
- 白き石
- 医師を待つ
- 碁をうつ
- 代償
- 盆踊り
- 電光ニュース
- 乗りつぎて
- 三輪車
- 再度童子
- 下り目の猫
- 絆
- 飢えいる
- 蜜蜂
- 非常ベル
- 旅だち
- 母の手鏡
- 花の季
- 癌細胞
- 歯型
- 草紅葉
- ひと夜帰らぬ
- 桐の花かげ
- 微笑み
- ・随筆
- 老人のこと
- 「じゃあ、またナ」
- 失語症
- 思い違い
- マー坊のひとりごと
- 脱出
- 緊急時
- 源さん
- 鈍行列車
- 鼻唄
- ワンカップ
あとがき