1983年11月、昭森社から刊行された芦田麻衣子の第3詩集。
芦田麻衣子さんは一九七五年最初の詩集『蝶とぴすとる』を上梓した。その「あとがき」の文頭に彼女は次のように書いている。
《わたしは、今日も透明な衣をまとって、何かと向い合って立っています。その空間を死の影がさりげなくよぎり、日常は哀しく切り裂かれ、わたしの立っている地球は微かに何かを予感しながらふるえています。そんな中で、わたしは生れて初めて詩を書きました。恥ずかしさで透きとおりながら、よろしく。ジョイント形式で詩を書いている芦田みゆきは、わたしのお腹から生れて来たメルヘン(娘)です。》
実をいえば、私は芦田麻衣子さんの名を知る前に、三、四年前ふとした機縁でお嬢さんのみゆきさんを知った。前記の処女詩集『蝶とぴすとる』にはみゆきさんが十一歳前後に書いた詩が約三十篇収められているが、その詩はいずれも清らかで夢の明るさにみら、ことばに天性の諧調が感じられる。お母さんの麻衣子さんの詩にはさすが沈痛なものが秘められているか、全体はメルヘン風の快活な調子を保ちながら、母子の詩が同じ花瓶の中の花と蕾のようによく諸和している、私は『蝶とぴすとる』を読んだとき、そんな印象をうけた。
みゆきさんは私が知ったころ、もう大学生であった。彼女は私たちの文学雑誌『同時代』の集りやその他の会合によく顔を出した。そんな折りふし私はみゆきさんの口をとおして、お母さんの麻衣子さんが詩を書いておられること、また多年――二十数年来――難疾に悩み、病院を出たり入ったり、昨今は自宅で療養しながら詩を書きつづけておられることを知った。また若い頃には或る劇団に関係し、のち夫君とともに藤沢典明氏に師事して油絵を描いておられたことも聞いた。多分そんな機縁からであろうが、この度、第三詩集『越幾斯』に序文を書くことを求められた。
しかしそんな事情から手紙は再々いただいているものの、私は作者自身を直接識らず、実をいえば今日までその詩も雑誌『同時代』に掲載された二篇、「風景」と「サイタ・サイタ」(本詩集に収録)以外に読んではいない。尤も洋半紙に一語一語が重たく丹精に墨書された原稿が私の手もとに届き、それを始めて読んだとき、詩の巧拙をはなれていわば言外に或る魂のおののきのようなものが感じられ、私は深く心を打たれた。麻衣子さんのこれらの詩には成熟した女の血の叫喚、存在への希求と他方、虚しさへの志向かちぐはぐに交錯して、それが自虐と倒錯のイメージを生み、また幾分病理的ともいえそうな独自の韻律を生む。私は前記の雑誌に推挽し、この二篇の詩を転送した。
実はこの稿を書くに当って、私は本詩集のゲラ刷を読み、また近々いただいた既刊の二詩集『蝶とぴすとる』『虎走る』を始めて通読した。『蝶とぴすとる』は先にも述べたように愛すべき佳篇であるが、『虎走る』と本詩集『越幾斯』を読んで感じることは、詩の愛好家が始めて本腰を入れて、言語によって自己の存在を構築しようとするさいに出会うさまざまな困難と試みが見られ、またそれとともに、母岩のなかの貴石のように、その本来の稟質が二、三の章句、或いは語句となって耀き出ていることである。私がこの作者に願うことは、声より前に息があり、まずその息を静かに調えること、ついで声自身がもつ自然の法則を万象をとおし、或いはおのが心をとおして、さらによく聴きとってほしいということである。ジャコメッティは芸術は見るための手段だといった。詩を書くことはそれ自体が目的でなく、本当は沈黙の深さを知ることだ。そのためには耳を澄まさなければならない。声なきもののことばを聴きとらねばならない。
人形は着せ替えることができる。人もまた着物を脱ぎ、新たな衣裳を身にまとうことができる。しかし言葉は着ることも身を飾ることもできない。言葉によってなしうることは脱皮すること、言葉によっ
て別な形態のもとに生れかわること、それによって生き深めることだ。毛虫にとって緑の体毛がそうであるように、言葉はわれわれの皮質、脳神経の戦ぎ、またそれは万人のものである。
芦田麻衣子さんの三つの詩集を読みながら、人形のように人間には美しく着飾りたいという欲求があるとともに、言葉により或いは他の仕事をとおしておのずから脱皮したいという欲求があること、またそれがいかに至難なことであるかを改めて思った。
(「序文/宇佐見英治」より)
目次
序文 宇佐見英治
- 太古の夢
- 不在証明
- サーカス小屋
- 昏
- 生の斧
- 喪失の荒野
- 満月
- 姉さま人形
- 華やいだ花魁道中
- うつせみの
- 少女の夏
- 花嵐
- 風景
- サイタ・サイタ
- 鳩
- 白い芙蓉
- 盲いた人形たち
- 逃げ水
- 修羅の涯
- 引き潮
- 鬼灯
- 応答ネガイマス
- ルフランの息
- 青い幽霊
- あさきゆめみし
- 闇に浮く
- 新生
- 憂魂
- 哀弓
- 縄とび
あとがき