時の娘 荻悦子詩集

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 1983年11月、七月堂から刊行された荻悦子の第1詩集。

 

 詩を読む――と簡単にいいますが、それは決して簡単な作業ではありません。たいていの人は、いわゆる〈お歯に合う〉もの以外は読もうとしません。むろん、それはそれで別段わるいとはいえず、むしろ、無意識とはいえ、大切な選別作業であり、自分の感性を磨き、深めるためには必須の手続きとさえいえるのです。また、詩の読み手の一人一人が〈公正な批評家〉を期待されているわけではないのですから、どんな読み方をしようと、だれからも文句をつけられる筋合いもないのです。
 ぼく自身、たぶん、そんな勝手な読み手の一人です。でも、昔からたくさんの詩を読んできた自分を振り返ってみると、知らず識らずのうちに、一定の基準――つまり、対象の作品を採り入れるか否かについての物差しができているのに気づきます。物差しはいくつかあるのですが、中でも、その詩がぼくに〈快楽〉を与えてくれるかどうかが決め手となっているようです。〈快楽〉とは、ずいぶんあいまいな概念ですが、まあ、ぼくの得手勝手な言葉づかい、どのようにもご推測ねがうとして、ここでは詳述を避けたいと思います。ともかく、ぼくとしては〈快楽〉としかいいようがないのですが、この物差しで他人の詩を量って、それほど間違いを犯したことはなかったと考えています。
 荻悦子さんの詩は、右に述べたような〈快楽〉を、かなりしたたかにぼくに与えてくれます。初めて荻さんの作品を拝見したのは、もう四年以上も前のこと、ずいぶんたくさんの詩を読ませていただいたわけですが、このたび詩集にまとめるについてゲラ刷りで読み返し、改めて彼女の作品からたっぷり〈快楽〉を味わい直した次第です。
 荻さんの詩を読んで、たぶん、だれしも気づく第一の点は、素直な感性でしょう。たとえば、「志摩」「果汁」などの詩篇に、それははっきり見てとれます。読み手としては、彼女の繰り出す言葉のイメージとリズムに、黙ってついてゆきさえすればいいのです。荻さんのイメージはいつでも鮮やかで明るい。鮮やかさは彼女の感性に強い知性の裏打ちがあるせいでしょうし、明るさは南国生まれによるところが大きいのかもしれません。このタイプの詩人は、よくユーモアや皮肉にあふれた作品を書くもので、事実、荻さんにもそういう詩がありますけれど(たとえば「サンタ・ローザ」。この詩集には収められていませんが、このほかに同じような傾向の作品を二篇、ぼくは記憶しています)、その数は意外に少ない。荻悦子さんは明るさを無条件で肯定し、魂はいつでもその方向へ呼び返されたがっているようにみえますが、目が見るもの、手が触れるもの、頭が考えるもの、つまり自他を含めた現実の様相は、そう簡単に書く人の望みと親和するわけがない。目が自分自身に向けば、たとえば「塊あるいは魂」のような作品になり、他者に向けば「扉」「屋根の上」「網」のごとき詩とならざるをえないのです。明るさにひかれて、もっとアイロニーを含んだ詩をたくさん書いてみたい気持ちを、なかなか現実のありようは許してくれないということでしょうか。
 素直な感性だけで世界が捉えにくいのは、人間社会にあって当然のことですけれど、格別、詩人にとっては辛いかぎりの事態です。いつの時代でも、詩人の苦しみの起点はそこにあるはずですが、打開する道もまた、昔から一つしかないのであって、それは、綿密な詩作をつづけること、です。むろん、荻さんは、そんなヘ公理〉は百も承知で、ですから、前にあげた詩篇や、多分にロマンチックな味わいのある「夕映」や「白馬」、また自己へのまなざしが一段ときびしい「輝線」「アダージョ」など、ごらんのとおりの綿密きわまる作品を書きつづけてきたのでした。そして、ときには「あのひとは見ただろう五月の宴を写したその絵織の七彩の花の野が幾重もの時の扉をすり抜けて途方もないあとの世界へ迷い出てしまったわたくしの証跡座るわたくしの形をした空隙をやわらかく抱えているのを」(時の娘)と、自己の不在を夢みるまでに至るのです。こうなると、読み手のぼくとしては、〈快楽〉なんてのんきなことをいっていられなくなるのですが、それでもぼくは、荻悦子さんの詩から得る実質を、そのような言葉で言い表わしてみたいし、これから先の彼女の仕事を、いま述べた視点から測っていっても、決して間違えることはないと信じています。
(「跋/北村太郎」より)


目次

  • 市街図
  • あの野原
  • 志摩
  • 早春
  • ハチソン街・秋
  • 果汁
  • サンタ・ローザ
  • 果樹
  • 塊あるいは魂
  • 薄明の部屋
  • 空・旅
  • 白馬
  • 落日を
  • 屋根の上
  • 応答が終るまで
  • 石化
  • 夕映え
  • 輝線
  • アダージョ
  • 山百合の頃
  • 遺跡ⅠⅡ
  • 時の娘

跋 北村太郎

 
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