1957年10月、山河出版社から刊行された富岡多恵子(1935~)の第1詩集。第8回H氏賞受賞作品。
富岡多惠子さんに、はじめてあったとき、きみの好きな詩人はだれときくと、彼女はたちどころにローレンスですとこたえた。ちょうどチャタレイ問題がやかましかったころだが、好きなのはそういうベストセラーになった小説ではなく、D・H・ローレンスが若いころに書いた、あまり日本の読者には知られていない詩だと知って、この女はちょっと変ってるなと思った。私もむかし、口ーレンスの詩をいくつか読んで、プリミチブな生命感に打たれたことがある。しかし、それは所詮私には異質の詩精神であって、この二十二才の女子大学生に、彼の詩について百枚の研究論文を書かせるほどの魅力ある存在とはならなかった。ローレンスの詩のどこにほれたのか、いまそのことを、彼女が精力的に書きはじめた詩の内容とかんれんさせて考える時間はないけれども、一つだけ言えることは、富岡多惠子も、戦後輩出してきた、新しい世代の詩人たちと同じく、詩の出発において、また詩の必要において、戦前の私どもがかんたんにとらえられた思想とか観念とかいったものにあまり信をおいていないということである、むろん無反応だという意味ではない。ただ彼女の詩を見ると、それよりも、そういうものの媒介なしに、直接的に彼女の生命認識に参与するヴァイタリティのようなものをこそ、詩において求めていることがうかがえる。その点でローレンスに通じるものがあるといえばいえるだろう。したがって、彼女の詩には、どの詩にも明確な主題が欠けている。むしろ主題喪失の状態で、八方に拡散するイメージに身を任せ、何か決定的な観念のようなものが、前方か後方にあらわれて、詩が一つの方向を持とうとすると、自らその方向を拒否し、善意がきざすとできるだけ意地悪くなろうとし、また自己形成が行なわれようとすると、それを本能的に解体させてしまうような操作を無意識にやってのける。おそらく生活とどこかで抜きがたく結びついているこのような女の体験が、なぜ純度の高い美として私に感知されるのか、それを私は考えてみようと思っている。
(「序文/小野十三郎」より)
ここに集めました詩は現在まで一年以内に書いたものから選びました。詩を書きはじめてからそれ程たちませんから、これ等の詩がひとつの時期の協和音であってくれたらと想うのみです。私は詩を書くときに気にかかることがいくつかあります。にほんのうた、ということもそのひとつですし、うたそのもの、それを支えている時間ということも気にかかります。うたが私たちのそばのものから、いつも考えてゆくものであり度いと思い、又、次々に複数としてくるものを、掛け合わせて単数にしたり、一方を無理に忘れて単数にするのでなく、複数が複数のまま単数である様なところにうたを見出してゆき度いと思います。そのための微量のうごきに緊張を賭けることを想っています。しかし、私の想ううたが相対的なものとして在り、求めてゆく性質である意味では変化してゆくものかも知れないということを、否定を媒介として肯定してもよいと思っています。
始めて詩を集めて本にすることで、他の多くも含めて、小野十三郎氏に心より感謝いたします。
(「あとがき」より)
目次
序文 小野十三郎
- 二匹の犬と
- 取越苦労
- ケーブルカアの旅行
- 返禮
- 腫れてゆく乳房
- 喜劇的悲劇・悲劇的喜劇
- 葉桜の中
- 四月の強風
- 死者たちへの手紙
- サクラ日和
- 南の島の人へ
- 戯歌
- 三ツの単語
- 日曜日
- 手品師
- Between――
- 植物的な話題
- マドリガル
- 童話
- 華やかな埋葬
- 自画像
- 道化の恋ごころ
- 別れを告げる日月
- 身上話
- 呪詛の絵本
- 単純な質問
- 誕生日
- はじまり・はじまり
あとがき