黒田三郎詩集 黒田三郎

f:id:bookface:20200722144550j:plain

 1958年6月、書肆ユリイカから刊行された黒田三郎(1919~1980)の詩選集。今日の詩人叢書4。

 

 父親が海軍士官だったので、当時軍港であった広島県呉市に生れた。大正八年春である。三歳の時に故郷の鹿児島市に帰り、高等学校を卒えるまで、ここで暮した。
 男の子は物干棹の下をくぐってはいかんとか、台所へ顔を出しちゃいかんとか、男尊女卑の尚武の国柄で昔風に育ったわけだが、どういうものか文弱な人間になってしまった。このごろでは、台所仕事も奇妙にうまくなった。
 戦争が終った翌年の夏、シンガポールの収容所で船待ちしていたときのこと、それまでに次から次へと日本へ引揚げて行ったひとびとの残した沢山の書物のなかに、面白いものを見つけた。「薩藩の士道」といった本だったと思う。その表紙の写真に僕が出ているのである。関ケ原における島津義弘の敗戦を記念して、毎年、城下から三里の道を、青少年が鎧胃に陣羽織という姿で、妙円寺へ詣る行事が行われていたが、その写真なのであった。
 これを見つけた時は、本当におかしくなった。戦意昂揚のための時局向の本なのにその表紙に事もあろうにこの文弱少年が、健児の典型のように出ているのである。
「これでは負ける筈ですよ。」借金をいっぺんに返した時のように何かせいせいした気がした。
 僕はこの故郷の人間のタィプとしては、桐野利秋のように野蕃で、慓悍で、卑怯なところのない人間が好きだった。多分明治維新後の反動士族の典型的なひとりだろうが、さっぱりしていて僕は好きだ。理非曲直はまた別のことだ。僕の中学生のころは文明開化でもうとっくにこういった乱暴者はいなかった。薄汚い乱暴者ならいるにはいたが。
 学校へ通っていたころ、いくらか成績のましだったのは、中学一年と高校一年の時だけで、あとは坂を降ってゆくようなものであった。第七高等学校造士館という学校では、後から前の方へ成績順に机を並べることになっていて、毎年前に出てゆくのがおかしくてならなかった。
 東大の経済では同期に安東次男がいるが、知らなかった。もっとも僕は商科で、しかもひどく怠惰な学生だったので、殆ど講義をきいたことがなかった。
 昔からかなりつき合いの悪い人間だったらしい。引込思案のくせに、ときどき奇想天外なことをやらかしては、失敗した。
 たしか七高の二年の時だったと思う。北園克衛氏に手紙を書いて、VOUに入れてもらった。木原孝一は僕より一年も前にすでにその一員だった。北園氏にきくと「あれは大工の卵だよ」ということで、まだ工業学校の建築科へ通っていた。
 いまの「荒地」の友人で当時いっぺんでも逢ったことのあるのは、中桐雅夫、鮎川信夫それに森川義信と牧野去太郎くらいのものであった。
 大学を出てからは、二年仂いては二年休むというくりかえしを三べんもくりかえした。最初の休みは、収容所生活と失業。第二と第三の休みは結核。三度目の休みで左上葉を切除し、それからはこの悪循環を断って、今年でもう三年半仂きとおしている。
 ロの悪い友人は、「アルコール消毒のおかげさ」と言うが、そんなところかもしれない。いつのまにか、中年の意気地のないサラリーマンになってしまったが、そのことについては別に弱音を吐こうとは思わない。ただ打ちひしがれたような自分の詩を、僕は好きではない。それはあくまでネガティヴだと思っている。だから、それを詩だと自称することには、激しい抵抗を感ぜざるを得ない。
(「畧歴にかえて」より)

 


目次

黒田三郎論 木原孝一

  • またあした
  • 夜の窓
  • 深夜に
  • ああ
  • 物思ひ
  • 何でもない
  • 蝙蝠傘の詩
  • 傍観者の出発
  • 憤怒が風に吹かれてゐる
  • 逃亡者と影
  • あなたの美しさにふさわしく
  • 母よ誰が
  • 時代の囚人
  • 自由
  • 声明
  • 歳月
  • 歴史はどこにあるのか
  • 星のように遠く
  • 春はすぎて
  • 愚かなからくり
  • 我等の仲間
  • 死のなかに
  • 明日
  • もはやそれ以上
  • 賭け
  • そこにひとつの席が
  • あなたも単に
  • 妻の歌える
  • 引き裂かれたもの
  • ただ過ぎ去るために
  • 僕を責めるもの
  • この道のしずかさに
  • 夕方の三十分

畧歴にかえて 黒田三郎

 
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索