1972年12月、土偶短歌会から刊行された福島誠一(1933~1971)の遺稿歌集。福島誠一(小原保)は吉展ちゃん事件の犯人、死刑囚。
書かないでもと思ひ、後記には書かなかった事ながら、校正の為に二度三度読み返してゐある中に、書き残して置くべきだとの考へを新にしたこと二、三を書添へたい。
一、歌の数に就いて
この遺作集は、私たち「土偶」に発表した歌のみを採録したので、福島君の作歌を全部掲載してゐない。
「林間」に発表したものは総て洩れてゐる。私たちの仲間入りをしてからも、添削して返送した歌などに就いては、雑誌に未発表のままになってしまったし、四十六年の初め頃からは添削をせずに撰だけして載せたので、其の為に洩れてゐる歌の数も相当あるのだが、それらの歌は私の手許にないまま残念ながら洩れてしまった。
「......折がありましたら今迄の歌を全部見て頂いて、悪いところを直して頂きたいと考えて居ります。......」といふ彼の考へ(手紙)が実現してゐたら、より多くの歌を納め得たことと今更ながら悔やまれてならない。
二、文学(ママ)に対する知識に就いて
自ら無学者であるといふ通り、彼は小学校を四年までしか修業してゐなかったやうである。その彼が、獄中で歌を作るやうになってから辞書を引きながらの勉学で、これだけの文字を習得し、その上誤字を殆んど書いてゐないことに私は、歌に対する彼の執念をまさまざと魅せられて来たのである。
親の脛をかじって大学を卒業した方たちが、当用漢字も満足に書けず、その上誤字を書くのと大変な違ひである。
然し彼にも新旧仮名遣ひの混同はいくつかあった。それは気付いたものだけは訂正して載せた。
又、彼は東北人であったが故に、発音の違ひを其のまま書いたと思はれるもの、例へば「考えた」を「考いた」「覚えた」を「覚いた」と書違へたものは訂正して置いた。
三、書簡に就いて
彼の遺詠を読むまでは、遺歌集を出版するなどと考へも及ばなかったので、彼の書簡は大方紛失してしまった。文通をしてゐた土橋さんにお願ひしたが、彼女も幾通る持ってみなかった。古屋さんは一通もなかった。致方ないので私のと土橋さんのを採録した。
然し福島君の私宛の最初のものが土橋さんの手許にあったのは幸いであった。私宛と土橋さん宛の書簡で、内容が重復してゐる向もあるが、これは同時投函のものなので致し方もないし、書簡そのものが少ないのでかまはず採録することにした。
歌を読んで下さる方はこの書簡集も必ず読んで頂きたい。如何に彼が歌に真剣に取組んでみたか、犯した罪に対して常に心を傷め、歌を発表すること事態、社会から誤解を招かぬやう心を配ってゐたことが察知出来から
以上蛇足と思ひながら書添へて置く。
尚、この遺歌集は私一人の計画したもので、「土偶短歌会」及び私の友人達は、一切拘はりなく、責任は総て私個人にあることも書添へる。
(「附記/森川邇朗」より)
目次
- 遺詠
- 十三の階段
- 断罪
- 小鳥と共に
- 今日を生きる
- ものの形
- 葉牡丹の色
- 我慢の石
- 償
- 暮しの灯
- 冬から春へ
- 祈り
- 紫陽花の鉢
- 老囚
- 鳩の目
- 黒揚羽
- 生命あづけて
- 落葉一片
- 公害
- 五年の春
- 孤囚
- 寂しかなるもの
- 春泥
- 柳の風
- 萌ゆる芽
- 愛鳥死
- 雀
- 朝顔
- 供水
- 処刑待つ
- 枇杷の花
評言集
書簡集
後記
附記