はじめての泉 野沢暎詩集

f:id:bookface:20200811234333j:plain

1977年4月、彌生書房から刊行された野沢暎(1938~)の第2詩集。

 

 この詩集に収めた二十五篇の作品は一九六三年から一九六六年にかけて、同人詩誌「暴走」「凶区」「艶」などに発表したので、私にとっていわば十余年前の古傷を晒するのといえます。
 この作品を書いた頃の私にとって特徴的なことといえば、私の情念と言葉を〈関係〉させることに詩の意味を見出そうとしていたことで、これらの作品が極めて観念的な傾向がつよいのはそのためだと思います。
 第一部「海の果実」は、芳村そのみという女性名のペンネームで発表したので、序文は、芳村そのみと私との関わり合いを表現しようと試みたるのです。私の作品の中では、この「海の果実」が最る当時の私生活を反映しているのに思えます。
 第二部の「はじめての泉」「敵の敵」「森の意図」の三篇は、第一部とほぼ同じ頃書かれたもので〈きみ〉という二人称を、関係がらもつれ混乱していく過程でほとんど見失ってしまっており、敢えて芳村そのみという女性詩人を設定しなければならなくなった理由がここにあります。
 私はこれらの作品を書き終えてから詩を作る直接の動機を見失ったように思えるのは、身勝手な解釈と言われるかおしれませんが、<きみ〉と関係を続けているうちに一人称と二人称、それに三人称まで区別がつかなくなってしまったからだと考えています。
 第三部「予兆のとき」は、一九六三年に出した『海の発作』という詩集に収めた作品とほぼ同じ動機で書いたもので、今、読み返してみると、私にとっての戦後、それに一九六〇年代の同世代意識に、かなりつよく執着したことがわかります。
 十年以上前の作品を並べてみて、当時の私の感受性や観念性に我ながらへきえきさせられますが、あれから十年という年月を関連づけてみると、今の私には、やはり私なりに肯定できるのがあります。この詩集の随処に見られる未熟さ、混乱、虚勢といったものが、三十歳代末の今の私に、やはり共通しているように思えること、それに十年前結婚してから一篇の作品書かなくなったのに、妻は、決して私の変化を認めていないことが、かつての詩の動機が依然として私に残っている唯一の証拠に思えるのです。(「あとがき」より)

 

目次

I海の果実

  • 溺れる
  • 部屋
  • あなたの名トム
  • 約束
  • 時間の牧場
  • おやすみ やさしい影たち
  • 一月は眠れないあなたに

Ⅱはじめての泉

  • はじめての泉
  • 敵の敵
  • 森の意図
  • 営為
  • 年代記
  • 無名戦士
  • 可能な限り唇に
  • 旅のうた
  • 記憶と欲望のバラード

Ⅲ予兆のとき

  • 秋のために
  • ある出会い
  • 月蝕
  • 予兆のとき
  • 眠り――記憶を眠らせる試み
  • 眼の現場
  • 草の炎
  • 都市・幻

あとがき


日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索