三日月をけずる 服部誕詩集

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 2018年9月、書肆山田から刊行された服部誕(1952~)の第5詩集。装幀は亜令。第14回三好達治賞受賞作品。

 

 子どもの頃に通っていた床屋は、年取ったおじいさんがひとりでやっている店で、大きな理容椅子はふたつあったのですが、使われているのは、いつも手前のひとつだけでした。
 なにもかもひとりでしているせいで、店ではたいてい待たされていました。おじいさんの手際は、丁寧で慎重だと言えば言えるのですが、かなり危なっかしく、剃刀を使う段になると、ときどきその手が細かく震えているのが、子どものわたしにも分かるほどでした。
 それでもわたしが、家からは遠かったこの店を気に入っていたのは、じつは、その待たされる時間の長いことでした。そのあいだは、待合の椅子で漫画を読みながら待っていることができるからです。わたしは、できるだけ混んでいそうな時間を見計らって散髪に行きました。出はじめたばかりの週刊の少年漫画雑誌が、待たされる客へのサービスとして揃っていて、家では読めない連載漫画を読むために、あまり上手ではないこの理髪店にきめていたのです。
 その店には、左回りの時計が掛けてありました。おじいさんが体調を崩して店を閉めたあと、おとなになってからも、今まで一度も他の理髪店では見かけたことがないのが、この逆回りの時計です。ずいぶん待たされたあと、理容椅子に腰かけてから目の前の鏡に映る時計を見ると、ちゃんと普通の時計に見えるのが、はじめのうちは不思議でした。だが、いったん散髪が始まると、おじいさんのハサミ捌きが気になって、時計を見る余裕はなくなってしまいます。ですから、長いあいだわたしの記憶に残っていたのは、待っているあいだに何度も見上げていた逆回りのままの時計です。
 この時計の針は、左回り、つまり、反時計回りに動いてゆきます。文字盤の数字は鏡文字で、12の左横に1があり、その下に2と、普通の時計とは数字の位置が左右反対になっています。針は左回りに1、2と進んでゆくので、ちゃんと時刻を追って、順番通りに動いてゆくのですが、どうしても、その針の動きは、時間を後戻りしていっているように見えます。この店のなかでは、漫画を読んで待っているうちに、いつのまにか時間は反転し、過去に向かって進んでいっている。夕方はやがて昼になり、朝に向かう。わたしは、その日にあったことを思いだしながら、その時間にもういちど戻ってゆく。そんな錯覚に襲われるのです。
 会社を辞めてから格段に増えた読書する時間のなかで、あるとき、「人生は、未来に背中を向けて、後ずさりしていくことと似ている」というさる哲学者の言葉を見つけました。
 たしかに、わたしは、あの頃から六十年以上、過ぎ去った過去だけを見ながら、まだ見ぬ未来へとボートを漕ぐように後ろ向きにすすんできました。英語でbackwardclockとも呼ばれる「鏡時計」とは、まさに、「未来へと後戻りしながらすすんでゆく」時計なのです。
 今朝、箕面の我が家を襲ったマグニチュード6・1の大阪北部地震のように、未来はわたしの背中を不意打ちしようといつも狙っています。見ることのかなわぬわたしの未来には、これからどんな出来事が待っているのでしょうか。
(「あとがき」より)

 
目次

*鈴生りの木

  • 大空高く凧揚げて
  • さびしい背中
  • あたりばちの思い出
  • 猫と歩道橋
  • 轢かれた鶏
  • 旧堤防の向こうに
  • 家じまいの夕べ
  • 鈴生りの木

*淀川のうえで合図する

  • 白い猫
  • 踏切の音が追いかけてくる
  • 二〇センチだけ空威張り
  • 酔余の尾行
  • 問題のない飛蚊症
  • 座布団の行く末
  • 犬には追いつけない
  • 淀川のうえで合図する

*昨日を待ちながら

  • 昨日を待ちながら
  • 百まで呼吸を数える方法
  • 冬の朝に祖父は臼取りのリズムを刻む
  • 傷痕
  • わたしの好きな数字
  • 一九五九年の釘の話
  • 下りる男

*三日月をけずる

  • 村上三郎は鵺塚のなかに消えた
  • 園庭のない保育園
  • 町のにおい
  • 三日月をけずる

あとがき

 

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