1987年11月、山形県天童市の永岡昭の企画編集により私家版として刊行された赤塚豊子(1947~1972)の遺稿詩集。表紙画は小川安夫、委託製作は書肆犀。
私がはじめてその詩に接したのは昭和48年、菅野仁氏が編まれた「アカツカトヨコ・詩集』だった。とつぜん贈られたものを一読し、その衝迫力におどろいた私は、知合いの詩人たちに送ったり、また私の属している同人誌『現代文学』12号で、同人の文世批評家饗庭孝男氏に4篇をえらび、紹介批評文を書いてもらったりした。
その後、彼女についてなにか書くつもりで赤塚家をおとずれ、菅野氏にも会ったが、なかなか筆が手につかなかった。略歴にみられるとおり、彼女ほどの壮絶にして「聖なる」苦悩には、そう易々と近づけないものである。数年たってようやく『悪夢「名画」劇場』という連載短篇集――現し世はすべて悪夢のごとく形容不能なりとする命名――の第2集に、彼女の生涯と作品とを『悪夢正夢』として短い1篇につくり、それは行人社から単行本出版されている。
当時わずか32篇の詩を通してだが、私は彼女の存在自体の、また詩人としてのすぐれた特異性をおしえられた。肉体のハンディを超えようとする表現への熱意、生きる意志と病魔との死闘、そこで知った人の愛と信仰力、小さな窓から眺めて洞察した文明の偽り、痛めつけられた心身でも22、3才の乙女へのエロスの誘惑、そして最後に、キリスト教への入信にかかわりなく、生れつつあったと思える霊能の力などである。彼女は死霊――浄、不浄は知らぬが――の訪れと対話とを詩に編んでとりあげている。彼女の詩の衝迫するすさまじさの幾分かは、そこから由来すると思われる。 詩人渋沢孝輔氏は私への手紙の中で「ここには詩の原形、原感情」があると指摘し、饗庭氏も「生きることがもっとも純化された経験として言語化されている……彼女は死を予感し、絶望を言語化し、祈りを言語化し、しかも現代の世界の内的荒廃をほんの小さな視座から鋭敏にさぐりあてた」と評している。ここにして、けっして風化しえないトヨコの詩の力が宿っているのであり、たとえ少数でも時代をこえて人々の心を動かしつづけることは言うまでもあるまい。
(花輪莞爾)
目次
・1969年
・1970年
・1971年
- 新シイ 命
- 病院
- 雪ノ上ニ
- 夢ノ箱
- 私ノ中ニイルアナタ
- 老人
- 子供
- アナタモ
- 生物ノ世界
- 愛ニ飢エタ乞食
- 静カナ人
- 十代トノ別レ
- 無題
- 夢
- 石
- 鏡
- 古イ時計
- サヨウナラ
- 都会
- アナタハ 知ラナイ
- 私ハ 歩ク
- 老婆
- 子守歌
- 燃エル山
- 時
- 孤独ナ心
・1972年
- 雨ハ
- 手紙
- マダ
- 人形ハ 泣イテイル
- アナタハイツモ 傍ニ
- 一ツノ柩
- 時計ノナイ部屋
- 夢ノ鳥
- ソヨカゼ
- 太陽ト ヒマワリ
- アイノオワリ
赤塚豊子年譜
解説 花輪莞爾
編集ノート 発行にあたって 永岡昭