1957年5月、書肆ユリイカから刊行された前田透(1914~1984)の第2歌集。装画は太田浪三と明田川孝。
短歌という、古めかしいそして小さなものの中に自分をとじこめることに始ど堪えられなくなることがある。しかし短歌の作者としては、この古めかしい小さな詩型に精魂こめるときに、はげしいよろこびを感ずることもある。それはこの小さい詩が、現代の波長に鳴りひびくと思うときである。
そう思うことはひとりよがりであるかもしれない。しかし短歌は、文藝の様式としては滅びる以前に、もう一度時代のなかに生きる努力を駕しつつあると私は信ずる。その努力を、作者のひとりとして私も念しつつある。
成果は貧しいものだ。これだけのことに目の色變えて來たのかと思うとがつかりもする一九五三年後半から一九五六年末までの作品をえらび、「漂流の季節」に次ぐ第二歌集とした。人知れず二つめの積石(ケルン)をつんで、これから先は內的展望を深めて行く他はない。短歌は自己表白の文學だから、その素材として社會的事象を追求するには適した様式ではない。短歌にとつてだいじなのは表白すべき自己の內部である。
しかし、吾々の內部はもはや、如何なる意味ででも社會や政治から隔絶したのではあり得ない。社會や政治が、どうにもしようのない力を吾々の内面に及ぼすときに、吾々はそれらを敢て素材としない譯にはいかない。どちらかと云えば內面的と云い得る私の作品に、松川や砂川の問題が現われるのはそのためである。
ただ、そのような素材に、作品としてのリアリティを與えるには、やはり作者自身の内部がつねに問題となることはたしかである。
逆に云えば、作者の內奥が短歌形式を通じて抽き出されて來たときに、その瞬間のタイミングをのがしては結晶しえない作品が、はかない程の脆さを帯びているとしても同時につよいリアリティをそなえているかどうかが、すべての短歌作品に對する評價の基準となるのだろう。
私の作品が右の課題にこたえるものとは云えないが、この歌集を編んだ時期の、私の短歌に對する考え方はこのようなものである。
この時期に私はまたひとつの轉機に立ツた。それは宗教の問題である。治癒不能と云われる幼児糖尿病の「みなみ」は、今年奇蹟的にも學齢に達したが、發病以來五年半、毎日インスリンの注射によつて一日づつの生命を保つている。
そのみなみがある機會にカトリックの洗禮を受け、それから一年後の一九五六年五月に妻がプロテスタントから改宗した。長男も同時に受洗した。これらのことに私は殆ど干渉しなかつたが、今や私は家庭の中の異教徒である。
スピノラ修道女會のスペイン人の修道女たち、サレジオ會のイタリー人神父フェデリコ・バルパ師との友達づきあいはもう1年以上になるが、彼等は決して私に入信を強いないし私もその素振りを見せない。しかし、カトリシズムのきびしさとゆたかさを私は日毎に強く感じつつある。
カトリシズムに私は短歌をもつて立ち向うつもりはない。けれども、反應はやはり作品にあらわれずにはおかないだろうと思うと絶体絶命のような氣がする。考えてみれば文學と云わず、日本の近代そのものが西欧の移植であるに拘らず、キリスト教との對決をかんじんなところで回避して来ているのではないか。それは結局は回避しきれるものではないだろう。明治末期に多くの文學者が、私の父もまたそうであつたが、易々とプロテスタンテイズムに近づき、對決することがなかったためにそれを回避して行つた。文學と宗教の關係はそれ以來互に不可侵の狀態にある。
短歌の作者としてカトリシズムを考えるとき、私は妙な気恥しさを覚える。それで済むものかどうか。宗教が単なる素材としての好みや、表現のアクセサリーでなくなるためには信徒として護教的な立場に立たねばならぬものか、途方もなく難かしい問題がそこに立ちはだかっている。
宗教と文學は二者撰一的なものでないことはたしかである。しかし、作家はあまり宗教の問題に深入りしない方が安全である。私はどうやら、その安全な途を撰ばないであろうという氣がしている。
(「後記」より)
目次
・高原歌(1953―1954)
- 空さむき廣場
- ルオーの月
- 雪降れる河
- 放水路
- 小さき花火
- 朝の庭
- 平面
- 追憶
- チモール南岸
- 高原歌
- 山上湖
- 沼の午後
・冬の歸路(1955)
- 冬の歸路
- 小さき聖樹
- 虚しき午後
- 風のラジオ
- 冬を超えて
- 水路
- 孤りの拳
- 失楽
- 夏の驟雨
- 異言の祈
- 晩夏の風
- 石原
- 初冬の海
- 明日
・芽生えし麥(1956)
後記