1965年3月、長谷川書房から刊行された碓田のぼる(1928~)の第1歌集。装幀は小林喜巳子。新日本歌人叢書。
この歌集は、私のはじめての歌集である。この歌集におさめられた作品は、すべて雑誌「新日本歌人」に発表して来たものである。作品の配列はほぼ制作年代順に並べた。一九五四年から一九六三年に至る約十年間の作品から三百八十八首をえらんだ。
私は一九二八年、長野県に生まれた。千曲川にそった細長い盆地の中である。
私の家は小作農で、自分の家で作った米は、ほとんどが年貢でとられ、一年の半分は麦ばかり食べるような生活であった。地主がしょっちゅう来ては年貢や、肥料の代金や、時貸しの催促で父や母をせめたてた。父や母はしきりに平身低頭し、兄は部屋の片隅から怒りにもえた目でそれを見ていた。それは、幼ない私にとり忘れることの出来ない光景であった。
私は高等小学校を出ると、すぐに鉄道工場に見習工として入った。十五才の時である。私はそこで木工の技術を習得し五年間働らいた。私は夢中で働らいた。当時の私にとって、労働の積極的意味が理解されていたのではなく、むしろそれは一つの逃避であった。私は貪しさが生み出す、さまざまな不合理に反発し絶望的になっていた。敗戦は私に一つの転機をもたらした。私は東京に出て自分の生きて行く道をさがそうと考えた。しかし父も母も反対した。私がいなくなれば、生活は一層深刻になるのは明らかだったからである。私の出京問題で一家はインウツな空気に包まれて行った。私自身も決心はひるがえさなかったにしても、やはりやり切れなかった。たまたま、敗戦直後の石炭危機を打開するということで、鉄道当局が北海道の炭鉱へ応援隊を送ることになった。私はこれに応募して、昭和二十一年の暮れ、北海道にわたった。旭川から小さな私鉄で一時間近く入った所の小規模の炭山であった。私は三尺の斜坑に体を小さく折りながら、ガムシャラに働らき、大いに生産性をあげた。雪の吹き荒れる北海道の炭山での三ヵ月間の体験は、その後の私に色々な影響を与えた。私の行った炭鉱では、戦争中大勢の朝鮮人労働者を酷使していた。私は年老いた先山から、六尺棒で監督に叩き殺された朝鮮人労働者の話をきいた。また苦しさに耐え切れず廃坑の中でガス自殺をした何人かの朝鮮人の話もきいた。敗戦と同時にこのドレイ的な酷使に対し、一斉に判鮮人労働者は決起してその責任を追求した。会社の重役も監督も逃亡してしまったのは云うまでもない。私が行ったのは朝鮮人労働者が帰国した直後で、炭山では、労働運動が胎動をはじめていた時だった。私は坑から疲れて上って来ては、吹雪の音をききながら、板張りの物置きのような宿舎でいろいろな事を考え込んでいた。
私はその後東京に出た。歌人協会に入ったのは、私が私学の教師となって二、三年たってからである。
敗戦直後から、私は松本地方を中心として出されていた「露草」という短歌雑誌に入っていた。この雑誌は潮音の古い同人で、国語教育の実践家でもあった青柳競(あおやぎきそう)が主宰していた。作風は、農村を基盤とした素朴な生活詠が多かった。アララギの影響の強かった中で「露草」はどんどん発展し、信州歌壇を席捲しようとしていた。会員数も一時は全国で十指に入る位になっていた。しかし、青柳競は作歌活動と雑誌経営の過労のため昭和二十八年六月に急逝してしまった。青柳競は、初心の私に短歌を愛することを教え、言葉を大切にすることを教えてくれた人だった。私は打撃を受け、短歌を放棄しようとした。虚脱が続いた。
昭和二十九年の秋、私は街の本屋の店頭で「新日本歌人」を手にした。私はその雑誌の中にキラキラとしているはげしい意欲に強く打たれた。私は入会を決意し、「秋相聞」の一連の作品を送った。渡辺順三がすぐにハガキで私をはげましてくれた。
私は「露草」時代の観念的な作風から抜け出そうと努力した。それと共に「露草」に集まっていた多くの農民歌人が持っていたリアリズムを正しく発展させねばならないと思った。「秋草の実」の時代は大ざっぱに云ってそんな背景を持っていた。
私は順三を中心とし、新日本歌人の多くの先輩たちの指導とはげましの中で、自分自身を見直し、社会的な目を開いて行った。私は私なりに作歌に努力した。昭和三十三年の新日本歌人賞の受賞は、私をいっそうはげました。「オリオンの光り」はそうした頃のものである。
私は、フロレタリア短歌運動を継承発展させなければならない協会の任務を理解しはじめていた。組合活動や教育を守る闘いを通じながら、私は次第に階級という事がつかめて来たと云ってよい。平和運動への参加が、私の認識をいっそう進めた。「教え子」の一連はほぼこの時期にあたる。
私は、さまざまな活動を通じて、私たちの祖国がどんな苦しみの中におかれこの大地が、どんなに深い痛みの中にいるかを、前よりもいっそう切実に理解るようになった。アジアやアフリカ、ラテンアメリカの植民地諸国人民の放闘争が、自分自身の教育を守る闘い、生活と権利を守る闘い、日本の平和と立のための闘いと、どうかかわって来ているかをうけとめる事が出来るようになった。私は、この汚辱に満ちた日本の現実を見つめ、苦しみの根源を明らかにし、変革のために闘うことと、自らの短歌創造を正しく切りむすばせなければならないと考えつづけて来た。しかし、そう思いながら、私自身の作歌能力の貧しさもあって、作品創造への努力は怠りがちである。
私は、この歌集をあらたな出発点として、本当の夜明けの歌をうたって行かねばならないと思っている。それは農民の子として生まれ、労働者としてすごして来た私にとり、当然の任務だからである。
最後に、私の歌集の装幀のために、貴重な時間をさき、熱心な御力添えをいただいた、日本美術会の小林喜巳子氏に心からの御礼を申し上げなければならない。また、歌集出版を進んでひきうけていただいた長谷川書房の大久保玲子氏の御好意も深く感謝しなければならない。私は、ガンのため若くして世を去った大久保秀房氏との心おきない交友をあらためて思いおこしている。大久保氏の遺稿集「雅充と裕文とママさんと」には、氏の生に対するはげしい執着と、家族への切々たる思いが綴られてあった。私たちの交友についても、いくつか書きとめられてあった。私は、玲子夫人からおくられたこの遺稿集を読みながら、幾度となく胸迫る思いに打たれたのである。思えば私は今日まで、何一つ大久保氏との約束や期待を果たしてはいない。そのことを心にから恥じている。
(「あとがき」より)
目次
序 渡辺順三
・秋草の実(一九五四年―一一九五七年)
・オリオンの光(一九五八年)
- 映画「レニングラード交響楽」
- 療養所
- 帰省
- 東村忌
- 十一月五日(その一)
- 十一月五日(その二)
- 小さき自叙伝
・教え子(一九五九年―一九六〇年)
・夜明けまえ(一九六一年)
- たたかいの中で
- 夜は明けて
- 病む友
- 行動
- 起伏
- 城跡
- 追悼
- 日々
- 辞表
・戦列(一九六二年―一九六三年)
あとがき