跫音 木島始編

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 1957年11月、出版書肆パトリアから刊行されたハンセン病小説アンソロジー。著者代表は国立療養所邑久光明園創作会、編集は木島始

 

 ……白い砂、青い松、ないだ海、あたたかい微風、なだらかな坂道、……わたしは小島を一周してそれから文芸会のひとびとと話をすることになつた。主なる話の内容は、相像力と言葉の造型性についてであつた。わたしは、じぶんの喋る言葉が浮づつて、およそ造型することからほどとおいのを自覚していた。わたしは文芸会のひとびとの作品をすでに読んではいた。気候温暖な瀬戸内海の小島――自然の条件としてはもっともすごしやすいと思われる環境にすんでいるひとびとと、すでに言葉をとおして、顔みしりであつたのだ。しかし、直接、顔みしりになるときびしい断絶がわたしたちのあいだに横たわつていることに気づいた。適当な比較ではないかもしれないが、ナチスの拷問をうけたものとうけないものとのあいだにあるどうしようもない断絶、それをフランスの作家が描いていたのを想いおこした。わたしは、この断絶にこそ橋をかけようと懸命にならざるをえなかつた。その橋の構築に、想像力また構想力が役立ちうると考えなければならなかつた。さもなければ、文学なんか消えたほうがいい。それは憐みや同情をむしろしりぞけたうえに立つものである筈であつた。文芸会のひとびとも、あくまでライ文学というような限られたところで作品をみないで批評してくれるようにと、わたしに要求していた。もとよりわたしもその心算で、二、三十篇もそのときまでに読んでいたであろうか。しかし、……創作集の出版にまでこぎつけて、わたしはあらためてひとりひとりとその条件について考えることを思いたつた。出身や遍歴した職業をきき、それらが往々にして制約として縛りがちなのをむしろめいめいの踏台に思考の材料にとわたしは考えたかつた。しかし、それはわたしに集中的に問題の深さを思い知らせることとなつた、出身も経歴もそれらの何ひとつ語られず、それらはすべて闇のかなたに押しやられているのである。理由をどうか考えてもらいたい。わたしはじぶんの浅薄な不明を恥じる、とどうじにこれらのひとびとにみずからについての沈黙を強いている日本の社会の偏見の重圧に慄然とする。問題は、療養所のなかにではなくて、こちら側にあつたのだ。病菌はすでに確認されて久しく、培養はまだ成功せずも治療には曙光がみえるという。ところが、患者たちは病菌にだけではなくて、政策の結果と偏見に蝕まれているのである。患者たちの収容によつて社会から感染の危険を一掃するという目的で一歩をふみいだしたにせよ、遺伝という偏見すら社会にまだまだ繍漫しているのである。そしてまた、この強制収容という事態が測りしれない内面の抑圧をつくりだしているのである。わたしは、内面に抑圧されたあらゆるコンプレックスの自己解放に、文学のひとつのエネルギーの根源をみいだすので、文芸会のひとびとの直面している創作上の課題の複雑さに眼をみはつた。近代国家としての外観のその内側に、歪みが集中してハンゼン氏病患者にのしかかつていた。戦前の作品である「浮浪者」(柳井春男作)と「新しき住家」(葵光あきら作)は、強制収容を明暗両面からえがいているが、時代は移って、これからは療養所からの社会複帰の問題が当然主題としてとりあげられるようになるだろう。言わばそれは受難という主題から能動的なたとえばコロニー建設というような主題の方向に転換されるときでもある。部落民が出身を伏せたり、色のうすい黒人が白人として通用することで偏見の重圧をくぐりぬけてゆくこととも、社会に偏見の存在するかぎり生きぬくためのこの主題は関連してくるであろう。だが、まだこの集ではそういう主題にまでいたつていない。一個の生命体である人間が、病菌と文字どおり格闘しているありさまは、「くらやみ」(椎名三平作)や「手術台」(浅野日出雄作)になまなましい。これらの作品が、体験によりかかりすぎていたとしても、実感をなまのまま尊重しすぎていたとしても、やはりかけがえのない内的な苦悶の記録になつていることは否めまい。病者と健康者という関係は、肉親愛との相剋という形で「母の日」(五月早苗作)や「愛児」(森本とし作)や「義眼」(城田肇作)にするどくつきつめた姿で出されている。それらのいずれもが、発病という雷撃のような体験をそのまま文章にしようとしているために、視野は局限され、ライ文学という特殊な問題小説の枠のなかへみずから入りこんでしまうような傾向とはなっているが。療養所内での問題を扱ったものとしては「仙吉の歌」(瀬田洋作)がもつともすぐれていると思われる。この作品集は、病者の書いたものだから出来ばえを問わないというのではなくて、未熟は未熟として一通たりとも読者からの感想批評がよせられることが望まれる。それにはつぎにあげてゆく作品の作者たちが適当であろう。というのは、前述した作品の作者は故人かさもなくば現在創作の筆をとつていないひとびとであるから。「入江」(波多野啓作)と「樋門」(野上徹作)は、稚拙な自然主義的な創作方法でではあるけれども、体験の奥底ふかくに沈んでいる幼年少年期のモチーフを緻密に追おうとしていて力作である。歳月に洗われてもなおのこつたモチーフだけに、それなりの強さをもつているわけなのであろう。「日の翳」(上村元作)はうつてかわってアクチュアルな主題にとりくんでいる。この作品と「猿橋」(江田洽作)とはもっとも意慾的な方法をもちいて現実と対決しようとしている。ハンゼン氏病患者の問題をすてたわけではない。そういう逃避としてではなくて、一方は不備ながらも記録的な方法を挿入し、他方は民間伝承を昇華する民衆の過程を多角的に辿ろうとして、現実を追求しているのである。率直にいつて、農村に取材した着実な長篇小説をかきつつある「猿橋」の作者いがい、完成度は高いとはいえないであろう。それだけに、いつそうこれらを読んだひとからの関心と批評がよせられることが期待される。
 なお、全国の療養所にあつて筆をとっているひとはしばらくおくとして、邑久光明園で旺盛に小説をかいているひととして高沢道雄、潮三樹二らがあることを記しておく。
(「跋/木島始」より)

 
目次

序 野間宏

  • 樋門 野上徹
  • 日の翳 上村元
  • 入江 波多野啓
  • 母の日 五月早苗
  • 手術台 浅野日出男
  • 仙吉の歌 瀬田洋
  • くらやみ 椎名三平
  • 浮浪者 柳井春男
  • 愛児 森本とし
  • 新しき住家 葵光あきら
  • 義眼 城田肇
  • 猿橋 江田冾

跋 木島始


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