1950年11月、思索社から刊行された岡田刀水士(1902~1970)の第3詩集。装幀は南城一夫。
この詩集は、約一ヶ年ほど前に出版社の手元へ預けておいたものである。それがいろいろな都合で、今日まで延びてしまつた。從つてこのなかの作品は現在の私のものとは云えない。いま私の考えているものは、これらと餘程異ってきている筈である。
戦後の詩集「桃季の路」を出した頃は、すべてが實に楽しかった。古典的な感覺のテクニックをアニミチア風なスタイルのなかで、知的分析の角度からそれを弄ぶことに非常に興味をいだいていた。
その後間もなく、この感覚が根こそぎ折れるような事情が起つた。それは、ある行爲の實驗が見事に失敗し、人間の打算性と、物質上の苦痛とが私の人生觀をかなり暗くしてしまつたことである。この暗さは、書物や思惟からくる生ぬるい抽象的なものではなく、直接、實生活に響く大きな痛覺だつた。しかし、當時、作意としては、この實感を率直に表現せずに、實感を象徴的に意味化していられた。實感を尊べば、即物感覺や文脈の單純化に表現が特色づけられる。私はそうした現實感覺が、結局はある世界觀の感覺にまで昂められねばならぬことを信じていた。私の観念的象徴の作意も、こうした實感の昇華にあつた。この集の作品の大部分は、こうした心境から作られたものと云っていい。
しかし一年後の現在から見ると、その思惟的なスタイルが少々物足らなくなつている。抵抗の弱い、もつてまはつた舌ざわりがどうも不快なのである。この間の私の心理は、本集の中に實感的な手法を用いた作品が、ときどき表われていることによって理解されるであろう。兎も角、この問題は今後の詩集で改めて解決してゆきたいものと思っている。
ところで、私は、少しく現在の心境を記錄して、自戒の具としたいと思う。(現代詩の今日的な特色の一つは、テーマ自體が形式の問題をも含んでいることなど、內容の復雑性が目立つているということ。)
私は現在、極端に人間が信じられなくなつている。時間のなかで他人は必らず僕を欺いていった。これは僞わらざる體驗である。このことは、現在ひきつづいて襲いかゝる物質と精神との兩面の苦痛が、現實の社會不安と前途の暗黑さとに、ぴつたり繋つているという感覺にまで發展させてしまつた。だから、「欲情」のような欺かざる純枠感覺以外には、私はとうてい救われないのではないかと考えている。
(「後記」より)
目次
・運命の流
- 運命の流
- 光線の痕
- 巨獣
- 死者について
- 石
- 干潟
- 未來
- 微かな風俗
- 背信
- 濕地
- 夜半の花
- 花束
- 蝶の記憶
- 磔
- 遥かなるもの
- 幻覺
- 葡萄の雲
- 種族
- 永劫のもの
- 風の渦
- 福音
- 暗い島
- 谷間
- 冷雨
- 草の扇
- 夏の日
- 遠い虹
- 過古
- 痩軀
- 花環
- 睡眠の前
・欲情
- 欲情
- ひとゝきのもの
- 燈臺
- 愛情
- 骨壺
- 沖の莟
- 映像
- 時間
- 墓石の腕
後記