詩のかたち詩の発見 よみうり詩壇の十年 小野十三郎

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 1987年11月、浮游社から刊行された小野十三郎(1903~1996)の詩論集。編集は寺島珠雄(1925~1999)。

 

 私など詩を書いていると、どうしても散文的な叙述体でながさなければならないところがある。これは詩の書き方が、歌うというよりも描くという方法に拠ってきた者の当然のなりゆきだけれど、書き終わって読みかえしたら、そこのところで、詩の全構造のタガがゆるんでいることがわかって、こんなはずじゃなかったがなァとしばしばおもう。近ごろの詩には、各行がそれ自身のイメージを結びつつ、叙述のつなぎがなく進行しているものが多いから、そういう詩の書き手は、あとで多少の手直しをすることがあっても、とにかくそれは詩の文体としては統一されていて、私のようなおもいにかられることはそうないだろう。
 詩の書き方にはいろいろとあってよい。その方がおもしろい。しかし、そこで構造がゆるんでも、詩を書きはじめたころから、主にこの叙述形式に拠ってきた私は、これをいかにしていま自分の詩の力学として生かすかというほとんどそのことのみを考えながら、同時に私にあるそういう必要にもとづいて、今日の現代詩の在り方を見ている。それは使用されてるボキャブラリー一つとっても、このごろの詩に多い非日常語の汎濫と、それを以ってする詩の体質に私の感受性がついていけなくなったからでもあるが、それよりも状況と自分の存在という関係で、いいたいことをストレートに言葉にしようというおもいがつのってくると、詩の各行に自立しているイメージとその連鎖反応そのものがまだるっこくなってきて、むしろ平俗な叙述体がよしとする気持ちが強くなってくるのである。つまり叙述形式の詩における起死回生である。
 私は近ごろ詩を書くと、人から、頭がちょっとおかしくなってきたんじゃないかとかんぐられるほど妄想みたいなものがはいってきて、自分でもこれは老化現象じゃないかとおもうときもあるが、これも私にできる叙述体に生命を吹きこむ手段だと心得ている。もっともこの場合、空想妄想をフルに弄してまで私がいおうとすることの意味や願望は、まことに恣意的で、現代社会の状況とアクチュアルにかかわるところがないといまの世代の詩人や詩の批評家から判断されたり、それのみか、すべての階層の生活者に決定的な違和感を抱かせるということも考えられる。そんなものに私の詩がなっていたら、生かそうとした叙述体が無惨にダルなかたちであとに残るだけである。それならば、現代の詩の読者には、はっきりとした意味はつかめなくても、チカチカした硬質のイメージの連鎖で成立している詩の方がなにかがそこにありそうにおもえて魅力があるかもしれない。私などが踏襲している叙述の敗北である。事実、私も「現代詩手帖」や「ユリイカ」などに掲載されている若い詩人たちの作品を読んで、そんな衝撃を受けることがある。そのときは、それらの詩の言語空間から、読み手に回った私は、叙述によってストレートに意味を伝えようとしている詩にはない新しい意味なり、想念なりを一種の化学作用でこちらで合成しているのである。私のような者でもそんなことがあるのだから、想像する以上に、現代の若い詩の読者は、難解をもって鳴る現代詩から強い衝撃を受けるとともに、それを書いた詩人がいおうとしていることを、わかりやすい叙述にながされていないというその一点で受けとめているのだろう。そこに詩の変革が進行していると見ることも可能だ。
 ただ、かぎりある命だ。そこまで詩の変革の歴史や未来につきあうことはできない。自分のことを考えたら、他者の詩の方法はあと回しにして、私が置かれているいまの状況といまの時点で、私自身の詩の書き方に未発見のどんな可能性があるか、それをこころみてみることがせい一ぱいである。
 そこで話はまた、はじめにいった叙述体への執着にもどる。一つの手だてとして、妄想をさそいこむほどの想像力によって、いおうとすることの意味を先行さしたならば、叙述のところでだらける詩の文体がはたしてしゃんと立ち直るか。かならずしもそうはいかないだろう。生活現実と相わたるところにあるわれわれの存在感は、意識下の混沌未分の領域を内包している。それを切りすてて、われわれに詩を書かせるものがつねに一定の観念に短絡するところにあるかぎり、どんな空想も虚構も叙述体に活を入れるまでに至っていないことを、最近書く私の詩のその構造自体が示している。頭がちょっとおかしくなったんじゃないかとうたがわれるのは、ひょっとすると、私の空想、妄想のせいではなく、叙述の方法にべったりついているために、詩の文体そのものがだんだん弛緩しているからかもしれないのである。勤労者の詩とか、主婦の詩とか、生活をうたっている詩には、生活べったりのところで、やはり叙述体で流して書かれているものが多い。そういう詩が昔日の魅力をうしなってきたように、たとえ拠るべき思想、観念を自己の内部に深く持していても、無媒介にそこから書き起こされる詩は急速にバイタリティーを喪失しつつあるように私はおもう。
 これはリアリズムをふまえてニセモノ作りをすることがいかにむつかしいか、しかもそれを「平俗」な叙述体でやることがいかにむつかしいかということである。かなわぬまでも、わが妄想の「妄」を生かして、叙述の気息を一荒れさせる他、いまのところ手だてがない。
(「詩の力学としての叙述体 まえがきに代えて」より)

 


目次

  • 詩の力学としての叙述体 まえがきに代えて
  • 一九七七年四月~十二月
  • 一九七八年三月~十二月
  • 一九七九年一月~十二月
  • 一九八〇年一月~十二月(八〇年より十二月が二回掲載となり、翌年一月は休載)
  • 一九八一年二月~十二月
  • 一九八二年二月~十二月
  • 一九八三年二月~十二月
  • 一九八四年二月~十二月
  • 一九八五年二月~十二月
  • 一九八六年二月~十二月
  • 一九八七年二月~九月

編集おぼえがき 寺島珠雄
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