1975年4月、科学情報社から刊行された松浦直巳(1931~)の詩人論。著者は兵庫県生まれ、刊行時の職業は京都女子大学文学部教授、住所は京都市右京区。
言葉に憑かれ、言葉に疲れて、なおやみがたく私を言葉へと駆り立てるもの、それは私が何よりも生きて今、ここに在るという事実である。何と平凡な事実。しかし、人の存在は、眩いまでの白日の世界、光、秩序、現実の世界と、底知れぬ闇と混沌と非現実(虚構)の世界の、常に危機を孕んだ見えない一点に支えられているのである。そして、言葉(詩)の空間へ深く入りこめば入りこむほど、つまり、想像力によって、その一点は可視的になる。けれども、可視的であることが一種の悲劇であることもあるのだ。なぜなら、それはまことに小さな安息をゆさぶるからである。いっそう、存在についての答のない問かけの炎を狂奔させるからである。こうして、私は一方で詩を書き、他方で、おそらくは私と同じ意味で詩を書きつづけてきた多くの人びとの生の証を果てもなくたずね歩くのである。だから、私の書くものは、良くも悪しくも、私の内的必然性によって生まれたものであって、本来、純粋に主観的なことがらであろう。
しかしながら、書くという行為は主観を客観化することであって―客観的に書くということではなく――この、いわば、己の内部をひっくり返して外光にあてる営みは、苛酷なまでのエネルギーを必要とする。そして、私の産み落としたものが、果してそれだけの価値があるのかどうか。
もはや、語るまでもなく、私のここに集めたエッセイは、決して体系的なものではなく、また、詩人の知名度にも関係はない。なぜなら、新しいものもいずれは去って行かねばならず、古く忘れ去られたものも、いつ還ってくるか知れぬから。また、年代的にみても一九六一年から最近のものまで、およそ十三年の歳月にわたっている――もっとも、この間に、ディラン・トマスについて書いたものは、すでに他の本に収録したから、この詩人についてそれ以後書いたもの、および、その他のエッセイから、主として詩に関係のあるものを本書にまとめたのである。したがって、文体に多少の相異があり、内容についても若干重複がみられる。けれども、これらの作品の土壌をつらぬく私の意識の根っ子は、言葉と物と存在へ、あるいは詩の形象と変容へと延びているとはいえるだろう。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
- 言葉のこちら側で――D・H・ローレンスの詩について
- 概念の破壊ということ――-ウォレス・スティーヴンズ「至高の芸術に関する覚え書」をめぐって
- 変容と詩――ウォレス・スティーヴンズ「至高の芸術に関する覚え書」をめぐって
- 詩の与える喜び――ウォレス・スティーヴンズ「至高の芸術に関する覚え書」をめぐって
- 狂気じみた熱い詩霊の交感――ディラン・トマスと白石かずこ
- 詩における隠喩過程について――ディラン・トマスの場合
- 選ばれし土地――ディラン・トマス『ミルクの森て』について
- ディラン・トマスの性について――初期の詩を中心に
- 心の深淵に開ける風景――ワーズワスの詩にふれて
- 破れた風船をふくらませるペンギン――カミングズと私
- 黒い音符の躍動と孤独――ルロイ・ジョーンズ小論
- 光と闇の逆転のドラマ――ルロイ・ジョーンズ『ダンテの地獄組織』について
Ⅱ
- 三木露風の詩的生涯――青から白のイメジへ
- ことばへの愛と背信の間で――藤村壮詩集「つながれて」
- <時>の渦巻に抗って――伊勢田史郎小論
- 詩人はそれから何を見たか――君本昌久・詩と評論『仮名手本詩乱四十七行その他』について
- ぬれた人生観の拒絶――広田善緒の死に
Ⅲ
- 詩と実存
- 終止符の効用・その他
- 水――その精神の構築性について
あとがき