1956年5月、新評論社から刊行されたハンセン病患者の生活記録アンソロジー。編集は堀田善衛と永丘智郎。カバー装画は永丘智行。2003年に新評論からオンデマンド版が復刊された。
ある日、慰問をかねての講演を終えてから、わたくしは、全生園の研究室で、ここに暮す人々にとって、また人類全体にとっての強敵であるMycobacterium lepraeの姿を顕微鏡に見せてもらっていた。この微生物は、今や生を失って赤く美しく染め出されていた。これが人間にとって憎むべき敵の正体なのである。
全生園では、三つの戦いがおこなわれている。この細菌を相手としての根気のよい医学の戦いと、この細菌の犠牲になった患者たちの闘病と、そして、この病気についての社会の考え方に対する目に見えない戦いとである。
われわれは、このような戦いを尊敬したいと思う。陰惨に考えるのはまちがっている。その陰惨な空気とも戦わなければならない。この細菌は、結核菌の親類である。結核との戦いも、困難をきわめているが、この方は、よほど勝利に近ずいて来た。この細菌に対しても、戦果はあがりつつある。
しかし、療養所にいる人々の生活は、細菌との戦いのはげしさとは別に、外から切りはなされている。そして、その中には、あらゆる人間的な感情が、ゆたかに動いている。その記録を読みながら、われわれも、間接にこの戦いの戦列に加わらなければと思う。少くとも、われわれは、敵にはなり得ない。療養所でおこなわれているさまざまの戦いの敵にまわるのは不正である。この戦いに間接に参加するとは、はっきりと、味方につくことである。社会の心の冷たさをあたたかさに切りかえることである。この生活記録によって、味方がもっと多くなることを切に望む。
(「はしがき/中島健蔵」より)
私にこの文集の選をする資格があるかどうか、それを疑うことから先ずこの仕事をはじめた。そして一篇一篇と読みつづけていって、結局、私は選者ということではなく、限りある頁数の本のための、単なる編集者ということで、自分を納得させた。
とはいうものの、どれを採り、どれを採らぬことにするかという決定はしなければならない。これまでにも、私は様々なものの小説や記録の取捨を決定し、あるいは決定のためのアドヴァイスをしたことがある。けれども、このたびほど辛い思いをしたことはなかった。
途中で読むのをやめ、私は聖書をとり出して、ヨブ記を読みかえした。ヨブ記は、恐らく最古の癩文学である。
かくて再びこの記録を読みはじめた。これらの苦難の記録のなかには、記録あるいは生活記録という呼称のもつ枠をのりこえて、深く人間性にふれ、黒光りを放つものがある。私の方が逆にはげまされた。読者はそこここに、癩者という特殊性を越えたもの、人間性の美しさ、醜くさ、暗さ、悲しさが、それぞれにある輝きを帯びて、生きかつ動いているのを認められるであろう。
苦しみぬいた人々の魂は、なみの健康人の魂よりも余程健康である。
癩者は何を訴えているか。私は途中でヨブ記を読まないではいられなくなったが、ここに掲載された人々のすべて、また頁数の制限のためにとることの出来なかった人々のすべての文章も、魂の問題は自らの手で何とでも片をつける決意を示しているのである。人々が訴えているもの、そして訴えられているものは、社会なのだ。この日本の社会の人々一般に対して訴え、かつ社会は訴えられているのである。
何を訴えているか。魂のことではない。この病気をなおそうという、この一事である。それは、療養所という一つの社会をも含めて、日本の国家社会の共同責任である。見られる通り、現在でもまだ村々や町市には、惨憺たる迷信と無智、偏見が存在している。ここに採ることの出来なかった文中で、一人の人間が語っている。
「一瞬にして地球を灰燼に帰する事の出来る水爆や、原爆さへもが、発明されているのに、病気の完全に治癒する薬が、出来ないとは何という情けない事か、西欧には、ライはもう、研究の資料程しかないという事を聞いているが、東洋には、まだまだ多くの人々がこの病と苦闘しているのだ。医者や、科学者のヒューマニズムは、もはや、我々の頭上を通り過ぎて行くのであろうか。真綿で首をしめる様な病の進行と、その度につのる肉体の不自由さ、我我の恐怖は原子病患者のそれにも等しいものだ。この事実を、私は訴えたい。そして、二度と再びこの様な不幸を後の世の人々に繰返されることのないように、心ある医学者のヒューマニティに呼びかけたい」と。
人々よ、これらの素直な声を聞いてくれ。
(「あとがき/堀田善衛」より)
目次
はしがき 中島健蔵
一 発病前後
- かきつばた
- 嘘
- 別れ道
- 流れの中より
ニ 一つの社会
- おしめ
- 男の生活
- 女の仕事
- 壮健さん
- 友の死
三 白い病壁
- 弟の手術
- 盲目夫婦
- 渦の中に
四 青い芝生
- 十九歳
- 退園の日に
- 園の子供たち
- 正男ちゃんと僕
五 風雪の歴史
- 遍路
- 足跡
- いばら
- 奉仕作業
六 夜明けの園
- プロミン時代
- 夜の歌ごえ
- 金看板
あとがき 堀田善衛