鉛筆詩抄 吉塚勤治詩集

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 1949年6月、新日本文学会岡山支部から刊行された吉塚勤治(1909~1972)の第1詩集。装幀は浜野全平、装画は中津瀬忠彦。

 

 吉塚君と知り合つたのは、戰爭中、僕と同じ出版社に勤めていた彼の甥を通じてであるが、ある夜、銀座のある酒場でこの叔父・甥が仲よく酒を汲み交しているのに偶然出會して、そこではじめて彼に紹介された時、彼から受けた印象はひどく老人じみたものであつた。その時にはうつかりして氣ずかなかつたけれども、その後、彼と親しくなつてから、彼は歯が悪いこと、そして前歯が二三本ぬけているのに、義歯をしていないことに氣がついた。それで顔はまだ若いのに、ひどく老人じみて見えたのだ。どうして歯を入れぬのかとたずねると、彼はエへへ……と笑うだけで、そのわけをいわず、静かに、そして如何にもうまそうに酒を飲みつづけるのである。義歯に金を挑う位なら一杯で多く酒を飲みますよ、といいたそうな顔をして飲みつづけるのである。それほど彼は酒が好きで、僕などの知らない穴を方々知つていて、彼とつきあう機會をしばしば持つた。彼は酒を飲まない時は、どちらかといえば無口で、憂欝そうであるが、酒を飲みはじめると、やや雄辯になる。けれどもいくら醉つても、辞つぱらいによくあるような、あの大言壮語などせず、如何にも嬉しそうにニコニコしながら、いつも静かに飲み、いつも靜かに語るのであつた。
 その彼が、ある日曜日の朝早く、ぶらりと僕の家へやつて來た。その時、僕は彼の顔を見て、瞬間、おやつ、と思つた。というのは、いつの間にか、彼は義歯を入れていて、これまでのような老人じみたところがすつかりなくなっていたからである。
 「いよいよ入れたね」といつて笑うと、彼も笑い出した。それから僕たちは戦争の話や、政治の話や、文學や詩の話、そのほか自分たちの暮しむきについてのとりとめない話をしているうちに、午前はいつのまにやら過ぎてしまつた。彼はすでに十數年も詩を書きつづけ、未刊ではあるが、一冊の詩集にまとめて持つているという話を聞いたのも、この時であつた。そしてこの次にはそれを見せて貰う約束をして、彼は歸つて行つた。
 一体、どういう詩を書く詩人であろうか。それが僕にとつての非常な興味であつた。そしていよいよその未刊詩集を見せて貰った時、僕の期待以上のものであつた。僕はこの未刊詩集を是非活字にしたいと思い、知り合いの出版社の間を多少奔走してみたが、話が半分以上まとまりかけたにもかかわらず、駄目になつた。要するに紙不足で、というのが、この詩集の出版を断わる本屋の主な理由であつたが、裏へまわつて考えてみると、彼が無名詩人であり、今時、こんな無名詩人の詩集を出しても儲からぬというのが、もつと大きな理由であつた。
 その後も、僕は彼の詩集の出版について氣をもんだ。けれどももつと気をもんだのは、いうまでもなく當人である。そして今度詩集が出るようになつたら序文を書いてくれと彼はいい、ほんとに出るようになつたら書くと僕も約束した。この約束のままに、戰局は拡大し、深刻化し、僕たちの生活はいよいよ窮乏の中に追いやられ、彼はその乏しい生活の中で、生れて間もない愛兒を病氣で死なせ、空襲が激しくなるにつれて、妻子を郷里の岡山へ疎開させ、ひとりで東京に踏み止まっていたが、ついに彼自身も病氣になつて、東京を引揚けた。そして岡山の空襲で、またもや二人殘っている子供のうちの一人を失うというような、大きい不幸を味わねばならなかつた。この大きな悲しみの中で、彼はそれに打ち負かされず、せつせと詩を書いて、僕に見せてくれた。僕は彼と共に、彼の詩集が出版される日を疼くような思いで待ち望んだ。そしてついにその日の來たことを、彼と共に聲をあけて喜びたいような氣持で一ぱいである。
 吉塚君の詩の特徴は、一口にいうならば、「日常茶飯事」を非常に高い感性をもつて歌いきつているところにある。これは彼の庶民的感情の最もよき現われであり、彼は庶民の日常的な生活感情の中にすつぽりからだを浸し、しかもそこから立ち上る時に彼の手足からこぼれる感情のしずくは、一般的な感情ごはちがつた純粋さに輝く。ここに彼の詩人としての精神の高さが感じられる。「藥維の詩」という作品の中に、次のような一聯がある。

おまへはあからさまなるもの
おまへはありのままなるもの
おまへは日常茶飯のもの
まるくみじかい胴と臀
への字の口と半円の鐶と殺風景な蓋
そしてそれだけ
そしてただ木炭、豆炭、練炭、瓦斯にあぶられて
さつそく真正直に熱くなる
たちどころにしゃんといひしめんといひ煮えたつてくる
うそをかくしどともない

 これが彼の詩的精神であり、これが彼の詩的精神であるということは、それが人民の精神とも相通ずるものであるということを意味する。この精神が時代の風や嵐に遭い、あるいは霜雪に洗い磨かれて、「鉛筆」という詩の中で、一本の鉛筆の芯となつて鋭くとぎすまされ、あるいは「兵隊靴」の中で、靴底の鋲となつて力強く鳴り響いている。
 日本の若い詩人は、總じて勤めを持ち、結婚し、子供が生れたりすると、若い時に持つていた詩的情熱など、どこやらへ失つてしまう者が多いが、彼は全くその反對であつて、結婚し、子供を持ち、一人の子供が二人になり、二人の子供が三人となり、つまりいわゆる世帶じみて來るに從つて、かえつて彼の詩の中味は充賞し、豊富となり、底光りさえして來ている。この意味で、彼は全く新らしいタイプの詩人であり、日本の詩壇は彼の登場のために、道をあけねばならぬであろう。
 一九四七年三月
(「序にかえて/壷井繁治」より) 

 

 この本が私の最初の詩集である。戰争中に、死んだ次男のために書いた詩を抄して、「あかまんまの歌」という小さい本にしたことがあるけれども、亡兒への私情に終始した少部數の私家版であり、詩集というほどのものではなかつた。
 およそ、一九二八年頃から、詩を書きはじめた私のこれまでの詩作を通じて、一冊の詩集にまとめたのは、これが最初ということになる。
 私にしても、今までに詩集をまとめようとしたことはあつたが、「詩集と結婚と出産と」という詩のなかにあるような事情で實現しなかつた。さいわい私は長い戰爭の間にも、どうやら生きのびて敗戰をむかえることができた。そして、もう一度出版を思いたつたが、これまた出版社の都合で延び延びになつてしまつた。この本の「序にかえて」は、その時壺井さんにお願いしたものである。序文の日附が一九四七年三月となつているのは誤植ではなくて、そういう事情によるのである。
 私は今年五月満四十才をむかえた。詩あるいは詩人に年齢なんかどうでもよいが、この機會にあらためて編集しなおして、ささやかなひとつの里程標にしたいと考えたのである。內容の上で、ごく最近のものまで入つているが、壺井さんの序文をそのまま念頭にしても、さまで不自然でもあるまいと考え、壺井さんの承諾を得たわけである。私の詩集の出版について、ほとんど私以上に心配しつづけた人は、はかならぬ壺井さんであつた。ただ、私としては戦争中から今日まで変ることのないこの詩人の厚情と鞭撻に對して、私の詩の貧しさを心から恥ずかしく思つている。
 この本の名ははじめ「鉛筆詩集」とするつもりであつたが、實際に編集してみると、過去二十年ほどの詩のなかから、主として頁數の關係上、わずかに三十篇しか掲せることができないことになり、「鉛筆詩抄」と改めることにした。ひとつには、室生犀星さんの「文藝林泉」という本のなかに、「鉛筆詩集」として詩を集めた頁があることを人から注意されたためもある。
 あまり多くの作品を掲せることができないために、いきおい敗後の詩作に重点をおいた。この期間のもののなかで落ちているものも多いが、集中「三つのD」から「冬雷」までの二十篇がそれである。それ以前のもののなかからは十篇だけを抄した。詩を書きはじめてから七、八年間のものは、すべてこの集からは除いた。したがつて、最初の詩集としては、はなはだかたわな編集といえないこともないが、昨今の出版事情では万やむをえないことであろう。いつの日か、私の歩んできた詩作の道を、より完全な形で明らかにすることができるように心がけたいとは思つている。
 しかし、この詩抄を通じて、戰争中から戰後へと、私の詩が辿つてきた道ゆきは、ある程度まで明らかにされるだろう。もちろん、私は私のすべての詩に決して満足しているわけではない。わずか三十篇の詩を選んだにすぎない集中の詩についても、私なりに多くの不滿を感じている。とくに、前に進みすぎたり後へ退きすぎたりして、とかくいつまでもジクザクしている自分に對してわれながら腹立たしく思うのであるが、今はこの詩抄を出すことで、できれば着實な一歩前進をはかりたいと願うばかりである。
 詩の配列は本來制作順にすべきであつたが、右のような編集のため、大体逆年順になつており、ところどころ前後したところもある。自分の心覚えのためにも、これらの詩を書いた年代を左に書きとめておきたい。

運河 一九三六年
母への斷章 一九三七年
雲雀について 一九三八年
父となる日 一九三九年
薬罐の詩 一九四〇年
市內電車 一九四二年
詩集と結婚と出産と 帽子昇天 紙の地球儀 -一九四三年
その朝 一九四四年
冬雷 鉛筆の詩 兵隊靴 風 一九四五年
疊 役場の知らせがきた時 一九四六年
陸橋 川手 合唱する人たち 家 アレグロ・マ・ノン・トロツポ 一九四七年
一週間 猫背 自己紹介 ポケット なんじやもんじや 冬こそ春を支度する 一九四八年
わが家の正月 南京豆の袋に書いた詩 三つのD 一九四九年

 なお、この詩抄を出版するにあたつても、私は多くの知友の深切な友情にまつものが極めて多い。とくに、さきに序文を書いて下さつた壺井さんはもとより、この貧しい詩抄を美しい素描で飾つてくれた中津瀬忠彦、また装幀に色々と苦心を傾けてくれた濱野全年の両兄に心から感謝を捧げたい。さらに、印刷や製本の面にわたつて目に見えない努力を抑いつづけた第一印刷の人々に對しても、私はここにおれの言葉を書きとめておきたい。
 とまれ、今はこの一枚の木の葉のような、しかも葉脈の透いたところさえある詩抄を出すことで、私はただ新らしく疼くような心で詩を書きたいのである。目標は遠いほどいい、そして歩幅は狭いほといい。この言葉を自分の胸に刻みつけて、どこまでも進んでゆきたいのである。日本の勤労人民のなかのひとりとして。
 一九四九年五月三十一日未明
(「あとがき/吉塚勤治」より) 

 

目次

序にかえて 壺井繁治

  • 三つのD
  • 南京豆の袋に書いた詩
  • わが家の正月
  • アレグロ・マ・ノン・トロツポ
  • 冬こそ春を支度する
  • なんじやもんじや
  • ポケット
  • 自己紹介
  • 猫背
  • 合唱する人たち
  • 一週間
  • 陸橋
  • 役場の知らせがきた時
  • 兵隊靴
  • 鉛筆の詩
  • 冬雷
  • その朝
  • 紙の地球儀
  • 帽子昇天
  • 詩集と結婚と出産と
  • 市內電車
  • 藥鑼の詩
  • 父となる日
  • 雲雀について
  • 母への断章
  • 運河

あとがき

 

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