2019年2月、思潮社から刊行された彦坂美貴子の詩集。装幀は高林昭太。付録栞は倉橋健一「口語自由律のあらたな地平へ――今はただその混沌こそ凝視」、北川透「ポリフォニーのこだま――彦坂美喜子『子実体日記』随感」。
何かを分類し体系づけようとするときに、いつもその枠組みから外れるものたちがあります。それは異質な魅力を持っています。「子実体」は、菌類の生殖体で、胞子を生ずる器官。菌糸は分裂し、飛散し、ランダムにアトランダムに拡散増殖し生成を続けます。
詩とか歌とかも一度その枠組みを外してみたい。春日井建のもとで短歌の世界に関わり、詩も書いてきた私にとって、言葉の表現はジャンルを超えて自由な世界を持っていると思われました。春日井建は、詩を書き、短歌を書き、演劇の台本も書いた自由な表現者でした。彼の短歌のなかには、七七七五という都都逸のリズムを取り入れた作品や、口説節のリズム七七七七を短歌の連作の前後に使用した作品もあります。五七五七七の定型と思われている短歌ですが、初句四音や七音、結句の欠落も古典和歌の時代からあります。和歌の時代には、五七調を反復した長歌という形式もありましたが、最初は五音、七音になりきらないものもあったといいます。
五句三十一音だけが短歌ではない、という自由な発想を敷衍して、型を少し崩せば表現は詩にも歌にもなります。
日本語で詩を書くということは、膠着語や等時拍音形式、母音律、漢字・ひらがな・カタカナ表記など、日本語の特性に作用されます。定型音数律表現も口語自由詩もその日本語の特性の上に成立しています。文節の不適切な切断、屈折した詞と辞の連携、文法の破壊が行われていても、日本語の持つ特性から解き放たれることは無いと思われます。そこにもし日本語のリズムがあるとすればどのような表情を表すのだろうか、そんな問いから子実体日記は始まりました。
『萬葉集』以来の和歌や短歌定型も俳句定型も、近代以降の口語自由詩も、いわば日本語の表現が培ってきた遺産といえます。ジャンルの枠組みを外し、その表現の遺産の使い方でもっと広い世界を獲得できるのではないでしょうか。この作品群は、私の既存の詩形への挑戦です。
これらの作品がどのように読まれるのか、どのジャンルに分類されるのか、拡散増殖し生成し続ける子実体のように、歌も詩も私にとって尽きない問いの形式であることに変りはありません。
(「あとがき」より)
目次
- つれてゆきたい
- 壊れ始めて
- 身体は途中から折れ
- 冬枯れのバラ園
- 掟のように……
- 夜になると
- ギガントキプリス・アガッシィ
- 透明なゼラチン質
- みずに触れると
- 歯の生えた舌
- 執拗に愛する
- 骨だけは
- 地を這って
- 灼熱の光
- 三億の月
- 誰かを……
- 季節外れの蝶
- ここにいるのに
- 変態をくりかえした
- 絶え絶えに息つぐ
- 生きもののように
- 移動する
- 木霊するこえ
- 発芽して
- ひなたのみずのなかの
- 白いバクテリア
- 胞子を飛ばす
- 食い尽くし
- 私でなくなる
- 空のあやかし
あとがき