1965年三月、青森県詩人協会から刊行された山田尚(1935~)の第1詩集。印刷所は青森刑務所作業課。著者は青森県南津軽郡大鰐町生まれ、刊行時の住所は大鰐町。
<なんのために詩を書くのか>という問いを、ボクはしばしば受けることがある。それがときとしてボク自身であることもあって、その度にボクは途方にくれるのである。どだいこの種の質問には、そんなに明快な解答は用意されていないものだからである。
ただ、詩がいつとはなしに、ボクの内部へ入り込んで以来いまはボクの中に住みついてしまって、それが当然という顔をしていることだけは確かである。この頃では、お皿や鍋の音をさせたりしている位だから、苦しまぎれに、詩集という体裁にして追い出そうかとも考えたりしてしまうのである。
とは云っても、ボクが<北辺の樹>に辿りつくまでには、かなりの逡巡や挫折があったように、正直に云って、それが何を意味するものか、よく解らないのである。十代の終りから二十代にかけて、青春の記録というにはあまりに稚拙で、年老いた貌を持ち始めたそれを。
迷走しながらも、ある確かな軌跡の上に立って、ボク自身を眺めようとするのであろうか。ボクのこれまでの短い人生のなかで、そのために傷つくことがあっても、ボクにとっては、その痛みすら生きることのなによりの糧であり、証左であるのか。
いつのまにか、ボクの背面にへばりついているものを、<北辺の樹>に感得させることによって、つかれたようにボクの中に存在の曙光を見ようとする試み。いわばこの詩集はボクの部の愛着と呻吟に充ちたレクイエムをボクのために歌ってくれるのではないかという期待。その意味では、ボクはこの詩篇のなかに、ボク自身の貧しい青春の悪夢を埋葬しようというたくらみを、ひそかに忍ばせておいたつもりである。
プリズムが、光の中から鮮やかな色彩を摑み出してくるように、これらの屈折点をなしている作品を一つの詩集として編むことには、いろいろ問題もあると思う。が、あえて<北辺の樹>のために、殆んど習作に近いものまでを含めたのはひとつはボクのために、ボク自身を解体し、さらにそれをひとつの単細胞としての可能性を確認する意図があったからである。だから、その発想や方法において、かなり異質のものが混然としている事実を認めない訳にはいかないと思う。その上で、たとえそれがひよわなものであっても、ボク自身の資質に立ち還ることができたとすれば、それはボクにとってし望外の喜びなのである。
ボクは、魚の記憶を歌い、ためらいもなく空翔ける鳥に呼びかけながら、茜色に染まったボク自身との対話を愛する。明るいステンド・グラスのように生と死の観念を往き来することによって、オルフェの悲劇を仮想することもある。野の草花や、愛のために風の光る道を急ぐ旅人であったこともある。そして、いつもボクは疲れはててしまった子どもなのである。
ともあれ、この詩集を刊行するにあたって<北辺の樹>をいつも愛し育くんで下さった青森県詩人協会々長川村欽吾氏、なにかと御教示頂いた事務局長佐藤忠善氏、直接支援して下さった弘前青年文学会の外崎道子さん、詩友諸兄にボクの心からの感謝を捧げたい。
(「≪北辺の樹≫に寄せて/山田尚」より)
目次
Ⅰ
- 牧神の話
- 夜ノ水族館
- めざめの時に
- たそがれ
- 悲しみの 壺
- ある世界から
- 悔恨の時
- いまはいない白鳥に
- 地の花
- ある遺言
Ⅱ
- 風逝くとき
- 白鳥に
- いたずら
- ロマンチカ
- 白い風にみた
- あいするあなたへ
- 石の花
- 冬
- 絶唱
- 壺
- 塔または愛を
Ⅲ
<北辺の樹>によせて