女のいくさ 佐藤得二

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 1963年4月、二見書房から刊行された佐藤得二(1899~1970)の長編小説。装幀は三枝正子。第49回直木賞受賞作品。著者は岩手県生まれの哲学者。右画像は新装版。

 

 「葉山にお宅のご親戚がいますよ」
 と、不意に語りかけたのは、読売新聞の集金人である。むかし私の兄に使われていた男で、そのころ一時親しくしていた。三年ばかり前の話である。
 「立派な家に住んで、金も持ってるらしい。少し資金を出さしたらどうです」
 と、彼は私をからかう。私は、やっと都合した風呂場の改築費を大工に費い込まれ、新聞代まで延ばしのばししていた。
「ぼくの親類に、金持などいるかい」と私は答えたが、いろいろきいている中に、霞んでしまった昔の光景が浮かんで来た。
 村の少女たちには、とても着られそうもない「赤い衣裳(いしょう)」に、「赤い鼻緒」のポックリをはいた女の子が、とりまいた人たちの間を、嬉々として歩きまわっている。私の方にも近よりそうになる。私はあわてて母の陰にかくれる。帰りに裏のアゼ道を歩いて、母は「可哀そうな子だな」と独り言をいう。あんなに得意そうにしていて、なぜ可哀そうなのか。ああ、テッキリあれだ、と幼い私は解釈する。あの子は、赤い着物にだまされて、遠くへやられてしまうんだ。ほかにも、そうして連れて行かれた子がある。自分もどっかへやられはしないか。私は恐れて母の手にしがみつく。
 「思い出した。その子は君のいう菅原の家から、どっかへ養女にやられたんだ。あすこには大きな女の子はいなかったから、きっと連中の妹だったに違いない」
 その哀れな子は、私の遊び仲間だった仁平を中にした三人兄弟の下に生まれて、もて余されてしまったのだろう。しかし養家が財産家で何よりだった。
 「ぼくよりはずっと年下のはずだ。敬意を表しに来い、と伝えてくれたまえ」
 「いや、そうじゃない。旦那さんより五つか六つ年上のような話でしたぜ」
 「変だな。そんな子のいたはずはない。どういう関係かな。とにかく、この近所に親類というものはないし、先方が年上だというなら、こっちから訪ねて見ようか」
 そして名のり合って話して見ると、おぼろげな記憶が一度にハッキリする。十二歳で田舎を離れた私にも、だれかれの顔と名が思い出される。お清さんは仁平たちといとこであり、私とはまたいとこであった。ある日彼女は、例になく腰を落ちつけて、若いときの苦労話をした。波瀾と起伏に満ちたその話に、
 「世間の人にきかせたら、どんなに慰めになるか、励ましになるか。一つ書いて発表して下さいよ」と、老妻はすっかり昂奮してしまって、茶碗をつき飛ばした。私は「清」と共に、父親の「全平」の人となりに興味をもった。むかしは、こういう傍若無人な親方が、そちこちにいたものだ。家庭教育もヘッタクレもあったものじゃない。今なら大変だ。子どもがどんなに転落しても仕方がない、と非難されるところである。
 しかも「清」の場合、母親が少しもプラスになっていない。だから、彼らの乱脈な家庭と一般社会とには、極めて大きな断層があった。それを問題にしないで渡り越えて行く少女の気合と活力はどこから来たか。
 父親の突進力、母親のシンの強さ。そんな生まれつきの上に、祖母「きせ」の薫育、これが清の進撃力のカギではないか。とも私は考えた。それに彼女の好きだった学校の影響というものも、もちろんあるだろう。
 祖母は何も特別に苦労した女性ではない。しかし、封建時代の巨大な圧力に堪えぬいた一人である。その知恵と身構えと忍耐力には、新時代の企及し得ない根強さがある。総じて日清日露の戦争などで発揮された日本の底力は、封建的訓練のもたらしたもの、明治新教育の力ではない、と認められる。キリスト教ぬきの西洋文化輸入は、「清」の母のさわに見るように、日本人の心に新生面を開いたが、まだまだ幼稚で素材的にも不十分であった。しかしその問題は、この小説の当面の目的ではないことはもちろんである。
 ただ、「清」の説明に祖母まで遡ったにつれて「全平」の方もずっと早くから書き起す必要に迫られた。その時代考証をもっと十分にしたかったのに、もう間に合わない。大方のご叱正を待っばかりである。

 「セコさん、いつか約束した小説、もう少しででき上がる。長岡輝子さんにも、そう言ってくれ」
 古迫久米次君(むかし拙著を出版した那珂書店主)を訪ねて、そう私がいったのは昨年の初夏である。かれこれ二十年前の戦争中、那珂書店の後援者篠原玄さんが、新劇の長岡輝子さんと結婚したお祝いの席上、
 「そのうち小説書きますからね」と何かの切っかけで言ったら、みんな笑った。私は盃をかざした。
 「いや、書きますよ。書いたら那珂書店から出してもらって、輝子さんには芝居にしてもらう」
 だが、戦後ひどい病気をした私は、病苦と貧苦に悩まされ(その打撃を一番うけたのはもちろん老妻であるが)、酔余のことばを思い出す暇もなかった。那珂書店も戦災で廃業した。
 恩友松本重治君のお蔭で、頑固極まる結核も何とか落ちつくまで養生できたが、今度は老衰が迫って来た。この僅かの間隙に、病床で考えた少年物語を何とかまとめたいと、とっおいっしている時、お清さんにめぐりあい、やがて古迫君のことも思い出したのである。
 最後の書き直しには四カ月かかった。十月なかばに終ったが、意に満たない。だれかに読んでもらって、もう一度書き直そうと、まず級友の橋爪健君(この間「多喜二虐殺」を出した)をコーチに頼み、目の悪い同君にホンの一部だが聞いてもらって、ほめられて自信をもちかけたら、松本君に忠告された。
 「友だちの見方は、どうしても甘いぞ。今ちゃんにでも見てもらって、批評してもらったらどうだ」
 そこで今日出海氏に頼み込んだが、その批評の聞けないうちに、セコさんから急なさいそくがあり、那珂書店の代りに二見書房から取りいそぎ出版ということになった。不安は大きいが、田沼君など二見書房辺の五、六人に賞められ、「うちにやらしてくれ」と言われると、これでも通用するのかな、という気にもなった。だれかにやっつけられそうだ。
 やっつけられたって、人生のいくさ人としての「清」の颯爽たる面影は彼女の母や伯母など古い日本の女の闘った「女のいくさ」の中で、ひと際さわやかなものとして、読者の印象に残るだろう。それで私は満足だ。
 有難かったのは、畏友川端康成君に推せんの辞を辱うしたことだ。文化勲章受賞者、日本ペンクラブ会長として、すでに文壇の大長老たる同君に、ここに「新進作家」として紹介されるとは、私にとって何とも愉快なことである。
 本書の出版を最も喜んで、出版費を負担してもいいぞ、とまで言ってくれたのは、私の恩友の一人梶原茂嘉君(全糧連会長、参議院議員)である。もちろん、長い病気からの私の再起を喜んでくれるのである。先日祝賀会をしてもらった。うれしかった。
(「あと書き」より)

 

 

目次

1 バリカン床

  • トイレットのない汽車で
  • なんたって舶来だ
  • 女遊びの第一歩

2 初めての恋

  • お羽黒つける女
  • 夏の短か夜
  • 別れ

3 北上川の青春

  • 夜明けのころ
  • 鉄道と学校
  • 結ばれた全平

4 神罰

  • 女の子は三つから
  • 花ぬすっとと女ぬすっと
  • 女は辛抱
  • 狂乱の夜

5 吹雪

  • 早稲田の森
  • 父のもとへ
  • 二度目の破局

6 修業時代

  • 赤ん坊をつれてくる生徒
  • 光りと闇
  • 父、浅草で開業
  • 誇り高き母

7 結婚

  • つたやの開店
  • 博多の暮し
  • 錦を着て故郷に帰る
  • 夫婦の危機
  • 関東大震災

8 背信の夫

  • つたや再出発
  • 乱れる思い
  • 決心
  • 離婚
  • 平穏な歳月

9 情痴のあと

  • 秋草
  • 雪之亟変化の誕生
  • 全平の死
  • 美しい喪主

10 冷たい炉端

11 死の十字

  • 転地
  • 雇われマダム
  • 精一杯に生きてきた

あと書き


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