1957年8月、第二書房から刊行された田中貴美子(1927~)の手記。著者は1945年9月から1948年10月までR.A.A協会勤務。
世の中は神武以来の景気とかで、世間一般の人々は、華美な生活に馴れている。
ドライ、太陽族、ユカルなど、嫌な言葉が闊歩する時代である。
いわゆるウェット族である私は、こうした時代に、終戦と共に進駐軍用として、日本女性を守るために、犠牲的精神を以て「昭和の唐人お吉」となり、R・A・Aの事業に、その尊い肉体を防波堤として捧げた女性の悲話が上梓されることを知って、これは今日の時代に、反省の書として、大いに意義あるものと喜んでいる。われわれ日本人は、惨たる敗戦時の労苦を回想し、軽快浮薄な世代を、早く脱しなければならないと思う。
いまこの『女の防波堤』を読み、当時を回顧し、この手記の著者のごとく、若き女性が辿った多難の道を想うと、まこと涙なきを得ない。
私は終戦と同時に、勤務先の社団法人日本映画社(日本ニュース製作)の解散で、当分浪人と覚悟を決めていたが、たまたま銀座山下の山下茂氏の推薦により、創立早々のR・A・A情報課長に迎えられ、G・H・Q等の連絡、渉外業務を担当して、この難事業を約一年間つぶさに体験した。
売春禁止法案が施行される今日、業者側出資五千万円、政府側保証五千万円、あわせて一億円の資本金を持つ、この政府と民間共同出資の赤線会社の創立など、まことに苦笑を禁じ得ない時の流れである。
当時としては、一般の婦女子の安否にかかわる重大問題で、内務省はじめ、帝都治安の元締め警視庁の関係要路の人々の苦労は、並大抵なものではなかった。
幸いに各業者の大同団結がなって、終戦直後の八月十九日にはR・A・A(Recreation' and Amusement Association)即ち特殊慰安施設協会の設立が決定された。
創立当初に於ける幹部の苦労は大変で、物資の不足はもとより、最大の悩みは、事業目的の第一である前線で働く女性を求めることであった。
外国軍隊の占領という前代未聞の事実に直面して、かつて支那大陸、南方方面でわれわれが犯した行為を想起し、種々の流言が行われた。鬼畜米英と叫んでいた日本の男性は皆殺しに、女性はドレイとなり惨酷な凌辱をうけるだろうなど、恐怖の流言は巷間に誠しやかに伝えられた。
この時に際して、R・A・Aの女性募集に応じた女性は、よほどの覚悟をもって参じた人々である。これら女性の尊い犠牲によって、帝都の婦女子は大過なく、その身を守ることが出来た。
爾後にいたって、自ら進駐軍相手に、肉体を売る女性があまた現われたが、これら女性と当初RA・Aに投じた女性とを、混同して考えては気の毒だと思う。両者の間に、観念の相違が多分にあると私は思う。
この手記の著者である田中貴美子君を、私はよく知らない。ともかく一千八百何人という、大勢の女性群の集団であったから、失礼ながら全然記憶がない。
しかし、田中貴美子君の手記は、事実その通りよく書かれている。
まことに大森小町園、見晴しの開店第一日は、私も早朝より視察に行ったが、あの広い京浜国道に延々と、眼を血走らせ、身振いしながら待つ彼らの姿は、凄絶異状なものを感じさせ、正視するに忍び難かった。
手記は、これらの状況を刻明に描いている。報告書によって上辺ばかりを承知していた私も、はじめて知る裏面の出来ごとである。 R・A・Aを辞めてからの手記は、これは当時のR・A・Aの女性の中から生れた、一つの女性の生き方として辿った道かも知れないが、まことに同情に堪えぬものがある。
「昭和の唐人お吉」なる美名に躍らされ、遂に脂肪の塊となる――これでは彼女らに救いはない。忘却の花であっては、彼女たちはあまりにも不幸である。
世の識者の一考を願い、併せて著者田中貴美子君の多幸を祈り、序にかえる次第である。昭和三十二年初夏
鏑木清一
元R・A・A情報課長
現日本ニュース映画社々長(「序にかえて/鏑木清一」より)
目次
序に代えて 鏑木清一
- 1 国敗れし日
- 2 土手下の家
- 4 友情に泣く
- 5 昭和のお吉
- 6 忘れた微笑
- 7 一枚の紙幣
- 8 なぶりもの
- 9 夜の風呂場
- 10 林さんの手
- 11 真実の愛情
- 12 胸の十字架
- 13 ラク町の女
- 14 根なしぐさ
- 15 私の奥さん
- 16 バタフライ
- 17 麻薬の世界
- 18 モデルの女
- 19 過去の秘密
- 20 若い運転手
- 21 ウイリーよ
- 22 分厚い書類
- 23 紐つきの女
- 24 噂の泣く声
- 25 鎖された門
- 26 ブタ娘たち
- 27 明るい希望
- 28 執念深い男
- 29 人生の黎明
- 30 男を訪ねて
- 31 運命の神に
あとがき