露のきらめき 昭和期の文人たち 眞鍋呉夫

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 1998年11月、KSS出版から刊行された眞鍋呉夫(1920~)のエッセイ集。著者は福岡生まれ。

 

 本書に収録した小文の初出は、昭和三十(一九五五)年から平成七(一九九五)年に至る四十年間に及んでいる。しかも、その内容は、昭和十四(一九三九)年の同人誌「こをろ」の創刊から平成七年末の中谷孝雄氏の帰幽までを対象としているから、実際には半世紀余にわたる文学的な事象の記録の集積ということになる。
 そういう意味では、結果的に、私の文学的な軌跡を辿った自伝だと言えなくもないが、この半世紀余のあいだには、ほかならぬ「大東亜戦争」の三年九カ月弱が挟まっている。だから、昭和期の文人たちが「大東亜戦争」とその戦前戦後をいかに生きたか。あるいは、そこに本書の特殊な主題の一つがある、と言った方がいいかもしれない。
 いずれにせよ、私が本書の小文を再読して改めて痛感したことの第一は、自分がこれまでいかに思いがけない出会いの恩寵に恵まれてきたか、ということである。なかんずく、佐藤春夫先生、檀一雄氏、矢山哲治をはじめとする「こをろ」の同人たちとの出会いは、私の生涯の中でも最大の出来事であった。第二は、自分が前記の先師先人や若い友人たちを含めたある不可測な力によって今日まで生かされてきた、という意識である。もっとも、そういう意識を自覚したのはこの数年来のことで、私はそのたびに、「おかげで、おれはまもなく辿りつくだろう、おれの中心に」という内心の声を聞くようになった。さて、その第三は、これらの小文で取りあげた文人たちの大半がすでに他界しているという事実であり、従って本書が期せずして彼らへの鎮魂の書の観を呈しているということであった。
 この第三の事実は、古人が屡々自他の命のはかなさを露に喩え事例を想起させるが、わが国における鎮魂の本義は、必ずしも生者が死者の魂を鎮め慰めることだけではない。むしろ、生者が死者の巨いなる魂を招いて、自分たちの衰弱した魂を奮い立たせることであった。
 だとすれば、われわれのはかない命が金剛の露と化してきらめき、「このひと筋」の山清水となって厳を貫くことも、あながち不可能ではあるまい。あの「青い花」の詩人ノヴァーリスが、「この広き世に寺社一つしかなし。そは空蝉ぞ」と喝破したように、である。
 私は特に若い読者にとって、本書が少しでもそのよすがとなることを願わずにはいられない。
(「あとがき」より) 

 
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あとがき


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