山奥の聖家族 十和田操

f:id:bookface:20211102002734j:plainf:id:bookface:20211102002736j:plain

 1998年7月、六法出版社から刊行された十和田操(1900~1978)の長編小説。挿画は三芳悌吉、林屋拓蓊、水野政雄。編者は筒井紅舟。紅の會叢書第九篇。

 

 縁あって私が、筒井家の末弟の嫁となって、いつしか四十余年が過ぎた。
 本書「山奥の聖家族」の主人公行彦は、私の舅にあたる。その義父との初対面は、私たちの結婚式の時であった。はじめてまみえる義父には威厳があり、堂々たる風貌であったが、その眼差しは優しかった。
 郡上藩の老職下津高悠の次男であった義父は幼い時、乞われて筒井家の養子となった。おそらくいろいろと苦労もあったことであろうが、そんな様子は微塵もうかがえず、実に風雅な日送りであった。小鳥を飼い、花を作り、囲碁に興じ、俳句を能くした。決して自己を語ることなく淡々とした生きざまの義父を私は敬愛した。義父もまた不肖の嫁の私を温かく見守ってくれたのである。残念ながら本書に登場するマリヤ観音なる義母はすでに鬼籍の人となっていた。才色兼備の素晴らしい女人であったという。
 話は変るが大正八年七月の八幡町の大火は北町を殆ど焼きつくしたが、その下津家の屋敷跡から奇蹟的にも無疵のまま出て来たという抹茶茶碗と、春夏秋冬を詠んだ、祖父高悠の八枚の半折とが義父から私に贈られた。後になって知ったことであるが、それらは義父の非常に大切にしていたものであったという。私は義父の為に何かなさなければならないと思った。
 その頃、かの伊藤整をして天才と言わしめた、作家十和田操の、筒井家をモデルにした作品が『蚕糸の光』という雑誌に連載されていたことを耳にした。若し一冊の本にまとめることが出来れば義父によろこんでもらえるのではと思ったが、昭和十五年頃の古い話であって、その雑誌はついに見当たらなかった。一冊十五銭の時代のことである。
 ところが平成八年に「おどりのまち郡上八幡文学大賞・十和田操賞」が設定されることとなり、前後して紛失していた『蚕糸の光』が本家の義兄の手によって見つけられ、当時郡上八幡文化協会会長であった谷沢幸男氏の許に届けられた。
 谷沢氏より私のところに連絡が入ったときはほんとうによかったと思った。しかしそれは読みとれない部分や欠けている個所も多く、全編揃ってはいなかった。欠落の部分を国立国会図書館をはじめとしてあちらこちらと探して回ったがなかなか見付からず、一時は途方にくれたこともあった。
 そうこうしているうちに、農林水産省蚕糸昆虫農業技術研究所の藤田雅子さんから一部コピーが送られてきた。そのときのよろこびは忘れられない。
 また谷沢氏の紹介で十和田操のご子息十和田伸彦氏と新宿の京王プラザホテルのロビーで初めてお会いした時は非常に感激した。一冊の本にまとめることのご快諾をいただき、その上何かとアドバイスもあり、挿絵の三芳悌吉画伯のお許しも氏を通じて頂くことが出来た。口絵は京都の林屋拓希氏、そして八幡町在住の水野政雄氏にも挿絵をお願いし、本書を飾ることが出来たこともうれしく思っている。
 上梓にあたり、全国養蚕農業協同組合連合会指導生産部の筧雄介氏、財団法人大日本蚕糸会蚕糸科学研究所の栗岡総氏はじめ多くの方々のご協力をいただいたことを是非記しておかなければならない。
 明治四十五年に創刊された『蚕糸の光』は戦時中に一時休刊したのみで今日まで連綿とつづいている伝統ある雑誌であることを迂闊にも近頃になって知った。
 前日本ペンクラブ会長尾崎秀樹氏に序文を頂き心より感謝申し上げる。本書発刊に際しては六法出版社のお世話になり、平岡智恵子氏には大変なご苦労をおかけした。
 思えばずいぶん大勢の方々のご協力のおかげでようやく永年の願いをここに果たすことが出来て感慨無量である。
 「行彦に年をきくと五十であつた。マリヤ觀音は四十八であつた。長女が二十九で一番末が尋常一年生の男の子で、今この大きな家に常住するは親子三人になつてしまつてゐた。」
 その尋常一年生の男の子は、もうすぐ六十五歳の誕生日を迎える私の夫である。
(「あとがき/筒井紅舟」より)

 


目次

  • 十和田操の文学世界 尾崎秀樹
  • 山奥の聖家族 十和田操

十和田操 略年譜

あとがき 筒井紅舟


NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索