今は鷗 福田葉子句集

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 1979年2月、俳句評論社から刊行された福田葉子(1928~)の第1句集。刊行時の著者の住所は渋谷区上原。

 

 福田葉子さんとの初対面は、たしか敗戦直後の昭和二十一年であったと思う。
 当時の俳壇は、戦時中の極度に抑圧された諸状況に終止符を打ち、ようやく往年の活気を取り戻そうとしていた。もちろん、その頃の日常の生活は、誰も彼もが困窮と混乱のどん底に喘いでおり、物心両面にわたる激しい飢餓状態は、実に言葉に尽くし難いものがあった。だが、それだけに、少なくとも魂の飢えを救わんとする願いも、いっそう切実を極め、このとき俳人たちの多くが俳句形式に傾けた情熱は、その後に例を見ないほど純粋であった。また、戦争によって青春を無残なものにされてしまった青年たちには、その傾向が特に強く現われていたのである。そして、僕も、その青年たちの一人であった。
 敗戦後まもなく疎開先の群馬県で「群」という俳誌を復刊した僕は、戦時中に次々と消息を失なっていった友人たちの連絡を待ちながら、一刻も早く東京へ帰ろうとしていた。しかし、厳しい転入制限のため、なかなか望みを達することが出来ず、やむなく荒川を隔てた埼玉県南端の戸田町のあたりで足止め同様になっていたのである。もっとも、そこから東京の中心部へ足を伸ばすことは、さして困難ではなかったから、そのつど会合の場所を見つけては頻繁に研究句会を行ない、少しずつ新しい参加者を殖やしていった。
 福田葉子さんも、その新しい参加者の一人であるが、まだ少し少女期の名残りが感じられたので、たぶん十八歳か十九歳であったろう。ただし、そのときの僕は二十歳を幾つか越えていたに過ぎず、他を推して知るべしという程度であったから、福田さんだけが格別に稚なく見えたような記憶はない。したがって、みな等しく稚なかったと言うか、あるいは、みな一様に初々しかったと言うべきであろう。東京の至るところに、なお多くの焼跡が残っていた頃のことである。
 当時の「群」は、いわば敗戦直後の俳壇を特徴づけるような同人誌の典型の一つであった。そこには、俳句形式に対する純粋な情熱と、俳壇に対する少なからぬ功名心とを、同時に燃え立たせたような青年たちが集まっていたが、現在と違って女流の参加者は極めて限られており、研究句会には福田さんを含めて二人か三人ぐらいしか出席しなかった。その研究句会は、心意気だけが取柄とも言うべき雰囲気に包まれ、それぞれが唯我独尊的な放言を繰り返していたから、女流に限らず迂闊には近寄り難いような、何とも奇妙な集団であったろう。この「群」は、十数冊を発行したのち廃刊となるが、その誌面に何度か田中葉子という名前の出て来るところがあって、そこには福田さんの文字どおりの初期作品が並んでいる。田中というのは、もちろん福田さんの旧姓である。
 その頃の或る日、銀座の街並みを歩いているとき、不意に走り出て来た福田さんに僕の名を呼ばれたことがあった。福田さんは、その近くの眼鏡店に勤めていて、それと知らずに店先を通りすぎてゆく僕の姿を、目ざとく見つけたらしいのである。当時の僕は肩まで届く大変な長髪で、敗戦直後の風俗としてはかなり異様な風姿に属したから、それだけ目立ちやすかったのであろう。すでに宿病の胸部疾患に苦しめられていたが、富沢赤黄男に出会ったことで俳句形式への傾斜を強めており、いよいよ意気軒昂たる僕であった。その日、銀座の鋪道を跳ねるように走り寄って来た福田さんは、研究句会の席上で神妙にしているときとは別人のごとく活発で、まさに少女そのものであった。ただし、そのとき福田さんと僕とが交わした言葉は、ほんの僅かであったと思う。おそらく、そこで急に出会ったことの驚きについて、互いに幾つかの言葉を発したのみであったろう。
 思えば、これが、若き日の福田さんを見た最後であったようである。まもなく「群」は廃刊となり、同時に僕の宿胸が次第に重篤となるにつれて、いつとはなしに外出することもなくなってしまった。そして、福田さんの消息も、おのずから絶えてゆくのであった。
 その福田さんが、ふたたび僕の前に現われたのは、たしか昭和三十八年のことで、それまでに十数年の歳月が経過していたのである。そのときの僕は、東京の代々木上原に移り住んで「俳句評論」を発行していたが、そこへ突然に福田さんが訪ねて来たのである。話を聞くと、しばらく前から福田さんも代々木上原に住んでいて、たまたま僕の姿を見かけたということであった。まさしく奇遇と言うべきであるが、やはり僕の蓬髪が鮮明な目印となっていたにちがいない。当然ながら、福田さんは三十代となり、二人の男の子の母親となっていた。
 それ以来、近くに住んでいるということで頻繁に顔を合わせるようになると、しばらく忘れていた俳句への関心を、福田さんは次第に目覚めさせてゆくのであった。まもなく福田さんは「俳句評論」の研究句会に出席するようになり、やがては「俳句評論」の会計係なども引き受けて、その有能な一面を実証したりした。
 しかし、福田さんの俳句は、なかなか言葉が熟して来ない憾みがあり、かなり長期にわたって苦しい蛇行を続けた。これは、女流俳人の大半が、いわば女らしい情緒的な世界を目指すのと違って、福田さんの俳句の世界が、或る種の強い偏執を絶えず際立たせていたからであった。それは、たとえば人里を遠く離れた超自然の魔境への憧憬のようなものであろうか。そこでは、草も木も人語を発し、鳥や獣も人面をしているかのようである。いや、そうであって欲しいというのが、久しい願望であったにちがいない。もちろん、そのような偏執の是非については遽かに論じられないが、それを多少なりとも熟した言葉で実現するのは、決して容易なことではなかったろう。したがって、福田さんの俳句が、少しずつ流露感を持ちはじめたのは、ここ数年のことである。
 思うに、ここへ辿り着くまでの福田さんは、いつも何かにかまけてばかりいたようである。おそらく福田さんは、その日常的な有能さを買われて絶えず何かに狩り出されていたために、そう簡単には俳句に集中できない状態にあったのであろう。だが、その福田さんも、やがて五十歳が近づく頃になると、ようやく一個の独立した自我を貫徹しようと心に決めたらしく、日頃の行動にも次第に闊達さが加わって来た。当然、その変化は福田さんの俳句にも現われて、この句集の大半の作品が、ここ数年の間に書かれることになった。
 そんなわけで、福田さんの俳句には、ほんの少し前に何かが始まりかけたというような感じが濃厚である。そして、これから先の福田さんの人生や、その福田さんの俳句に、更にどのような変化が起こり得るのか、それも予測は困難であるが、しかし、なお依然として多少の危なげが残るところにこそ、今後の期待をつなぐ余地があろうと、いま僕は言っておきたいと思う。
(「序/高柳重信」より)

 

 

 古い友人の五十嵐実氏から「群」という俳句雑誌を送っていただき、なんとなく投句を始めたのは、戦後まもなくの頃でした。わずか二十頁ぐらいの「群」は、まだ二十代の高柳重信氏を中心とした若い人たちのグループで、そのときの私も十代後半の少女期でしたが、かなり積極的に句会や吟行会などに参加しました。しかし、それも二年ほどの短かい期間で、ふたたび私が俳句の世界に心を惹かれるようになるまでには、かれこれ十数年の歳月が過ぎ去っていたのでした。
 たまたま俳句評論社の近くに移り住んだのを奇縁として、やがて「俳句評論」に加わり、改めて高柳重信氏の御指導を受けることになるのですが、その後の私が俳句形式に対しどれほど熱心であったかを考えてみると、むしろ後ろめたい気持がいっぱいです。すでに俳人として成熟しつつあった高柳重信氏の説く俳句の世界は、あまりにも厳しくなっていて、しばらく私は戸惑うばかりでした。また、その世界に一歩でも近づきたいという私の願いは、一向に実を結ぶ気配を見せず、いつも空しい思いにかられて来ました。もちろん、私なりの努力をつづけ、私の心の奥深いところへ少しでも作品の言葉が届くように、絶えず思いを凝らして来たのですが、こうして一冊の句集に纏めてみると、やはり意に満たぬものばかりが並んでいるという敷きが強まります。
 いまも時には思い出すのですが、小学校へ入学する少し前の頃、一度も逢ったことのない女の人の、ちょうど魂の影のような不思議な姿が、なぜか私の枕上に行っているのを、同じ蒲団に寝ていた母と一緒に、まざまざと見てしまいました。そして、その後も、同じような不思議な場面に幾度となく出会ったのです。やや長じてから知ったことなのですが、その枕上に佇っていた女の人は私の生みの母にそっくりで、ずっと私と一緒に暮らしていたのは、実は養母でした。しかも、私に物心がついて以来、その生みの母とは一度も会ったことはなく、私の記憶に残っているはずはないというのが、あとになってからの養母の打ち明け話でした。そんなことがあったためか、たとえば霊魂の存在をはじめとして、いわゆる超自然の世界に、おのずから心を惹かれるようになりました。更に、ここ数年は、それを私の確かな実感として捉え、私の俳句の中でも表現してみたいという思いが募り、いろいろと言葉の世界をさまようことになったのです。
 この句集にも、そういう傾向の作品が少なからず収められていますが、たとえ精いっぱい羽搏いても、私の想像力に限界があるためか、ここぞというところには、いまだに一度も行き着いたことがないような気がするのです。おそらく、いまの私は、いつまでも翔びつづける鷗のように、まだまだ当分は翼を休めることが出来ないと思います。
 ちなみに、この『今は鷗』には、昭和二十一年より五十三年に至る作品のうち、高柳重信氏に百二十一句を選んでいただき、それを収録してあります。また、その大多数は、ここ数年の作品で占められています。
(「あとがき」より)

 

 

目次

序 高柳重信

  • 揺籃句抄
  • 不思議な書
  • 鳥舟
  • 今は鷗
  • 飛頭
  • 憑き神

跋 中村苑子
あとがき


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