1979年12月、無限から刊行された松山豊顕(1926~)の詩集。著者は満州大連生まれ、刊行時の職業は高校進学塾塾長。
昭和五十四年九月七日午前二時、木原孝一さんが永眠された。
木原さんは「無限アカデミー」設立以来、世にかくれた詩人発掘と新人養成のために全力をつくしてこられた。
腎臓が悪く透析されるようになっても「無限アカデミー」主催の「木原研究室」は月に一度、どのようなときにも、欠かさず続けて下さっていた。
木原さんはまた第二回「無限新人賞」受賞の松山豊顕氏の詩をいつも絶賛されていた。「松山の作品は、その主題において、そのモチーフにおいて、その構成において、その言語感覚において、まことに現代的主題を現代的方法によって、現代の言葉を使って書くという現代詩の要請にこたえた作品である。いかなる観点から見ても第一級の詩であるというほかはない。」(抒情文芸より)
松山豊顕氏の詩集を「無限」から出版してほしいとの相談を木原さんから受けたのは、昨年の初めだったと思う。跋は木原さんが書くと云われていたが、あっと云う間に一年有余の時が流れ去ってしまった。木原さんの亡くなった直後に松山豊顕氏は上京して、悲しみにしずんでおられる奥様を見舞われた。そして改めて木原孝一さんの追悼として、詩集「まひるの星」を出版する決意をされた。
「木原孝一先生の跋が見つからないので慶光院さんに書いてほしい。」とのことであるが、「無限」第犯号に、「おくのわきみち紀行」という随想がある。その中に木原さんが、松山豊顕氏をたづねられた時のことを書いておられるので、木原孝一氏の跋として、その中の一節をここに掲載することにした。
昭和五十四年十月二十日(木原孝一氏七七忌)10月19日
宮内には野にかくれたる詩人松山豊顕が住んでいる。そこの料亭「宮沢」で松山君と再会。山寺へ登ってきたのでひどく疲れ、酒も飲めず、料理も喰えない。横になって詩の話ばかりする。料亭といっても田舎町のひなびたもので静かな風情がある。それでも今夜は粋な客があって、三味線の細い音が微かに伝ってくる。これが一弦琴ならまさに周五郎の「虚空遍歴」の沖也だが――「宮沢」のおばさん手製の「きりたんぽ」を少し食べて旅館に行き床に就く。この宮内町には、日本三熊野のひとつという熊野大社があって、茅葺きの大きな社殿は滅びゆく建物の美学があって捨てがたい。この熊野大社も調べる必要あるもののひとつ。10月20日
松山君が葡萄とあけびの実を持って起しに来る。既に9時である。12時44分山形発「つばさ」1号に乗るためには、赤湯から山形まで鈍行で行かなければならない。
あわてて風呂に入り、朝食。あけびの実を眺めながら、その食べかたを松山君に尋ねたが、そにもこまかくはわからないらしい。満州から引き揚げてきた松山君は、苦しい斗病の末、この土地に落ちついたのだ。その満州時代の話をいろいろ聞く。それから彼のエリオット観。松山君こそ、ほんとうに野に埋れたる優れた詩人だと思う。ハッタリもなく、野心もなく、実に謙虚に、詩に対い合っている。
旅館前で松山君に別れ、ハイヤーで赤湯駅に行く。
昭和四十九年三月(無限必号より)(「跋にかえて/慶光院芙沙子」より)
目次
砂金――序にかえて
Ⅰ
- アポロ12号のころ
- ああ日本
- 祭
- トッカリ
- 耕地整理
- 軍艦鳥
- コマユバチ あるいは軌道
- 雪
- 自我
- 兎
- 明日を見た
- 絵
- むささび
Ⅱ
- 星
- 看病
- 砂利をはこぶ女
- ある愛
- 愛
- まひるの星
- 同心円
- 泉
- 母子像
- 春の陰画
- めざめ
- 魔性に捧げるうた
- 日誌
- 家系樹
Ⅲ
- 修羅の峠
- 夜行列車
- 向こう岸
- 永遠
- けむり
- 三つの声
- 球
- 三人の友へ
Ⅳ
- 水に描いた花
跋にかえて 慶光院芙沙子