1983年6月、銀河書房から刊行された東淵修(1931~2008)の第8詩集。刊行時の著者の住所は大阪市西成区。著者は「銀河詩手帖」主宰者。
僕にとってこんなにうれしいことはありません。なぜ、なぜ、と、いいますと、詩が、書けたということです。
つまり、六年前に、心臓と血圧と糖尿が悪いのに、若さにまかせて毎日毎日一升酒をのみつづけていて、ついに、人事不省におちいり、南大阪病院にかつぎこまれ、四十五日間入院をして帰ってきたもののしょせん枯木になってしまったものは元へはもどらず、どこの病院へいっても薬が合わず、毎日毎日が、からだも、こころも、疲労しつくしていたところ、ある人から、あそこの病院がいいよといわれ、わらをもつかむおもいでその病院を訪れました。
二十七・八歳ぐらいでありましたか、若い若い先生でした。けれども、あれこれみていて、これと、これとの薬を合わしておきましたからそれをのみなさい。と、いわれ、これをのみました。ところが、どうでしょう。のめばのむほど、だんだんと、からだがらくになっていくではありませんか。僕は、ほんとにうれしゅうございました。その若い先生に手を合わしました。かれこれ六年のあいだ、見たり、聞いたり、あれも書きたい、これも、書きたい、と、思ってはみても、気力の無いのは、詩にとっては大敵であるということを身をもって体験しましたのも事実でした。
そういうぐあいで、気力が回復するとともに「おとうちゃんのぶるうす」を、一気に八百六十行とするものを書き上げてしまいました。
だから、詩というものは、宮沢賢治氏がおっしゃったように「われらに要るものは銀河を包む透明な意志巨きな力と熱である」と、まことにもって、的を得ているといわざるをえない今の心境です。ですが、書き上げた今日いえることは、六年の歳月は大きいしブランクはどうしょうもなく元もとの、東淵詩そのままでありまして、実験もなければ、詩における前進、もしくは、フロンティア精神も、あったものではなかった、という後かいだけはのこっています。
今は、ただ、謙虚に、詩を書けなかった、東淵が、生き返った、という証明を、ここに、呈示します。
(「あとがき」より)
目次
・おとうちゃんの ぶるうす (連詩)
- 昭和二十四年三月=再会
- 昭和二十四年六月=ややこ が でけた
- 昭和二十七年三月=にっかずぼん
- 昭和三十一年四月=はたらかなあかん
- 昭和三十一年四月=せびろ に ねくたい
- 昭和三十八年二月=くしかつや
- 昭和三十八年二月=いのちづな
- 昭和三十八年二月=診察
- 昭和三十九年十二月=とんびからもぐらへ
- 昭和四十年三月=よめはん とんずら
- 昭和四十年四月=いた いたた
- 昭和四十二年十月=きよみちゃん の いろけ
- 昭和四十二年十月=きよみちゃん に おとこが でけた
- 昭和四十二年十二月=きよみちゃん の 結婚
- 昭和四十三年七月=発狂
- 昭和四十三年七月=ええし は ええし どろんこ は どろんこ
- 昭和四十八年十二月=あんた もういっぺん しなしたるわな
- 昭和四十九年一月=うおおおおお うわあああああ
- 昭和四十九年二月=さかうらみ
- 昭和五十七年二月=風鈴と 友達と 俺と
- 米山五郎伝
- 赤いオオトバイ
- 山本のおばちゃん
- 変死
- 男と男の部屋から
- 男と男の部屋から2
- 半月のなっちゃん
- 土と人間との関係1
- 土と人間との関係2
- 土と人間との関係3
あとがき