2005年7月、思潮社から刊行された海埜今日子の第3詩集。装幀は白井敬尚。付録栞は広瀬大志「水の矩形」。著者は東京生まれ、刊行時の住所は世田谷区。
彼らとちがうということ、彼らのことをわかるなんてできない、彼らになれないということ。少女だったわたしは、何かのきっかけ(たとえば両親の離婚とかかもしれない)でそうしたことたちに気づき、ショックをうけた。わたしは彼らになりたかったから。共有のうなずきの瓦解。それは肌の感覚としても理解された。ゆるやかな悪寒として、磁石の同極同士の反発を、彼らとの間に感じてしまうようになった。みえない壁がたちふさがる、その圧迫。
孤独を感じた、というのではなかった。人ははなから、だれといても独りなのだ、ということに気づきながら、それを認めなかったことのずれが、皮膚をふるわせてきたのだった。肌はしずかに悲鳴をあげたが、少しずつその状態になれていった、たぶん。わすれること、人肌が恋しい、とつぶやくこと。
隣睦、はだから、認めることからの出発だ。そうではないかもしれない。それは到着なのかもしれなかった。なれることは他者との溝をうけいれることだ。タイトルには、隣と睦まじくなりたい、だけでなく、隣という他者に、ふるさとに対するような郷愁に似たものを感じている、ということも含まれている。それは思うだけで、けっしてたどりつくことはできないから。
当初は造語だと思っていたが、「近づきなかよくする。」(旺文社漢和辞典)とあるのを後日発見。だれかと何かを共有したような気になった。他者とわかりあうことはできない。だが触れることはできるかもしれない。
前作「季碑」が、幼少から連綿とつづいてきた何かへの探索に幾分比重がかかっているとしたら、今回は、自身から他者へ向かおうとしている、一筋縄でいかない、ほとんど一方通行かもしれない、だが接点をもとめる、その軌跡をたどっている、といった面があるかもしれない。「なぜ私は一生よそ者なのか。ここが我が家だと思えるのは、まれに自分の言葉が話せた時だけ。自分の言葉……失われた言葉を再発見し、忘れられた言葉を沈黙から取りもどす……そんなまれな時にしか自分の足音が聞こえない……」(「永遠と一日」テオ・アンゲロプロス監督一九九八年)、ことばで隣の足音に触れること。
(「あとがき」より)
目次
- 隣睦
- 草宮
- 降るほうへ
- 火文(ひもん)
- 逃げ水
- 孤を描く
- 縫われる月
- あなたもまたかの女をいない。
- 一別
- 分陰
- 非再会
- かたむく髪
- 交接
- 再往
- 彼岸花
- 河口
- 書物行き
- 記述蒼(きじゅつそう)
- 他人行き
- いたむ爪
- はつ熱
- 流砂
- 他夢(ほかゆめ)
- 花蓋
- 横顔
あとがき