1988年9月、書房ふたばから刊行された山内清の詩集。刊行時の著者の住所は大阪府高石市。
言葉を話すことがおそろしくなくなってくると、わたしという実体がなくなっていく、つまり、生きることがおそろしくなくなることは<自分>をどこかへ失っていくことなのだ。
かって、いつもなにかを畏れながらしか生きつづけることができなかったし、そのような生き方をしている人しか信じることができなかったのに、意味が無意味となり、無意味が意味となってわたしを支配しようとしている、そのようなわたしの対岸で影の言葉は、じっとひそんだままで詩の形をとろうとしない。
思想は弱者にしかもてなくて、強者は支配の論理しかもてない、そして本当の弱者とは決っしてなにかによって救われるものではない、なにかに追いつめられることもなく発っした言葉は<楽しみのひとつ>に過ぎない、そして、つぎにわたしに生れてきたものは、人や物の前を通過したきり、決っしてそこへはひき返してはこない<自棄>の思いだ、<自棄>の思いが日常となり、詩の方法となり、人への対応の仕方となった、すべては<それっきり>の形となってわたしの前にあり、わたしはそこから遠ざかって、二度とそこへ回ってくることはなく、そこでわたしがそれと出会ったということだけをいつまでもかかえて、わたしを次の方向へ進めていく。
わたしはわたしの眼の前にあらわれたものを見ているだけである、それらの持っている思いも言葉も拒否してそれを見つめて、見つめ終ると遠ざけていくだけの、そんな<自棄>の思いが日のなかへひろがってくる、そこから一篇の詩がそれとはちがった別の形であらわれるのをまちつづけているのだが、それはまだあらわれない。
できるかぎり、わたしの日常を単純化しようとしている、<眠る><食う><歩く><働く><洗う><買う><開ける><履行する><拒絶する>、それら一連の作業を無為につなぎ合わせ、それらの時間の隙間を単純化の眼で見つめ、<見つめ得たもの>を詩の形にしたいと願っている。
いま詩に対する眼のエネルギーはわたしのどこにあるのだろうか、人の集りのすべてにふつふつとするエネルギーを見るのに、反エネルギーの場からわたしは単発に、対象もなく言葉を連ねているだけである、それはそれでいい、だが、そのようにして書きつづけている詩は一体なにを照らそうとしているのか。
度の強い他者の眼鏡をかけると突然、世界はしりぞきはじめ、はげしくれてわたしを拒絶しはじめる、その眼鏡のような媒体がほしい、詩を書くための徹底した弱者のような媒体をわたしは思う。はるかな土佐の地でわたしの詩集ができたことが嬉しい。
(「あとがき」より)
目次
- うらら日に
- 光景
- 夏の木々
- 病院で
- 日ざかりで
- 犬のゆうれい
- 野の明り
- 泥
- バス旅行
- 木が男を
- 夕ぐれに
- 川
- できごと
- 遠くから
- 風の海辺
- 鬼耳
- 死んだ木
- 三っつのコップ
- うそ百回
- ネズミになった日
- 山やら雲やら
- かみそりになれよ!
- ネコになったカラス
- しずかな家
- 契約
- 駅
- ジュリアン・グリーンの横顔
- ながい朝
- 日蝕
- ラーメン伝説
あとがき